第7話:傷は才能だ
ハインリヒから渡された記録帳は、思ったより分厚かった。
元奴隷たちの名前。出身地。年齢。買取価格。特記事項。
ページをめくるたびに、ひとつひとつの人生が流れ込んでくる気がした。
俺はパンをかじりながら読んでいた。
(役者候補か、それ以外か)
監督人生で最低の選別基準だとはわかっている。
わかっているが、今はそれしかない。
ハインリヒが廃業した以上、この人たちの行き先を作るのは俺の仕事だ。
行き先を作るのに、俺にできることは劇しかない。
だから選ぶ。役者の目で、全員を。
革命後の混乱はまだ続いていた。
奴隷制度が一時停止されたことで、どこに行けばいいかわからなくなった元奴隷たちが、街の各所に溜まっていた。
子どもたちが路地で固まっている。老人が広場の端に座り込んでいる。
俺はその中を、パンをかじりながら歩いた。
―――
ルーチェを見つけたのは、廃屋の隅だった。
小さな体が壁に背をつけて座り込んでいた。
痩せている。手が膝の上で光っていた。淡い白い光。不安定に明滅している。
まるでロウソクの炎が風に揺れるようだった。
俺はその光を見て、足が止まった。
(照明だ)
「ねえ」
声をかけると、少女がびくりと顔を上げた。おどおどした目。十二歳前後。
「びっくりした……」
「光が出てるね。魔法?」
「……うん。光魔法。でも、うまく制御できなくて」
少女が視線を落とした。光がぱっと強くなって、すぐ消えた。
「爆発するんだ。失敗すると。前の主人には迷惑しかかけなかった」
「最高じゃん」
少女がぽかんと顔を上げた。
「照明にぴったりだよ。うちの劇団で光を担当してくれない?」
「……わたし。失敗するよ?」
「爆発したら演出になる。俺が台本を書く」
少女がしばらく俺を見ていた。子どもが言っている言葉として受け取ってよいのか、迷っている顔だった。
「……名前、聞いてもいい?」
「ルーチェ」
「俺は監督」
「……監督って名前なの?」
「名前みたいなもんだよ」
ルーチェの手の光が、少しだけ安定した。
迷いの明滅から、じっとした光へ。その変化を俺は見逃さなかった。
(この子の光は、落ち着くと綺麗になる)
「行こう」
立ち上がって差し出した手を、ルーチェはしばらく見ていた。それから、おずおずと掴んだ。
―――
ベルントを見つけたのはその翌日だった。
元奴隷たちが仮住まいにしている建物の入口で、男は柱に触れながら何かを呟いていた。
「この負荷の分散が甘い。柱が三本あれば……いや、二本でも角度次第では……」
「何を見てるの」
俺が声をかけると男が振り向いた。がっしりした体格。厚い手。口が「は? 誰だ?」という形になった。
「舞台の設計、できる?」
「……え?」
「建物を作るのと、舞台を作るのは同じだよ。構造的に」
男がまた柱を見た。それから俺を見た。
「俺は元大工で……役者とかじゃないし……」
「役者じゃなくていい。舞台を作る人間が必要なんだ」
男が黙った。数秒の間があった。
その間、視線が柱から俺に、また柱に動いた。
「俺、図面の話になると止まらなくなって……迷惑かける」
「迷惑なら歓迎だよ。うちは迷惑な奴しかいないから」
男がまたしばらく黙った。
「……ベルントといいます」
「俺は監督」
ベルントが一度だけ深呼吸した。それから図面を取り出した。手書きの設計図が何枚も出てきた。
「……仮設建築の強度計算、いつかしたかったんだ」
(こいつも、ずっと待ってたんだ。自分の図面が何かの役に立つ日を)
俺は設計図を一枚受け取って、じっと見た。
素人目にも精巧な作図だとわかる。
縦横の線に、荷重計算の数字が入っている。
「来週から稽古場の拡張をしたい。この通り頼める?」
ベルントの目が一瞬だけ輝いた。図面を見る時と同じ目だった。
「……やります」
―――
稽古場に二人が揃った最初の日。
移動舞台の前に全員が集まって、俺はルーチェに照明の位置を示した。
「この角度で光を当てて。舞台の右側。グスタフが立つ場所を照らす感じで」
「……やってみる」
ルーチェが両手を前に出した。光が灯った。
最初は安定していた。グスタフが舞台に立って構えた。ジャハルが端で腕を組んで見ていた。
ルーチェの光が、少し揺れた。
「大丈夫だよ。ゆっくりで」
俺が言った瞬間。
ぼん、と音がした。
白い光が爆ぜた。グスタフが吹き飛んだ。遠くまで飛んで、地面に転がった。
静寂。
ルーチェが青ざめた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」
俺はグスタフが転がった場所を見た。グスタフがゆっくりと起き上がった。埃まみれの顔で、無言で立った。
「……演出として、アリだな」
俺は言った。
「アリじゃないです!!」
ルーチェの声が裏返った。ジャハルが腕を組んだまま噴き出した。母が「まあ……」と静かに言った。ハインリヒが建物の影から覗いていた顔を引っ込めた。
(それにしても、爆発の光がきれいだった)
本当にそう思った。あの一瞬の閃光。舞台で使えない光など一つもない。
「もう一回やって」
「え、また爆発するかも」
「わかってるよ。次は爆発するタイミングに台詞を合わせる」
ルーチェがぽかんとした。グスタフが首筋の埃を払いながら戻ってきた。
「……俺はまた吹き飛ぶのか」
「頼む」
グスタフが一秒だけ俺を見て、頷いた。片腕の男の、これ以上ない信頼の顔だった。
―――
夕方、ハインリヒが記録帳を持って現れた。
顔色が悪かった。胃の方向に手が向かっていた。
「坊主。ゼクト軍事国家が動き出しているらしい」
「知ってる」
「知ってるだと? どこから聞いた」
「通りかかった商人が話してた」
ハインリヒが額を押さえた。
「革命の余波が広がって、軍事国家が領土拡大の口実にしようとしてる。本気で軍が動けばこの地域は戦場になるぞ」
俺はパンの最後の一欠けをかじった。
「舞台がある」
ハインリヒが目を細めた。「それだけか」という顔をしている。
「舞台があれば、人は集まる。人が集まれば話ができる。話ができれば……考える」
「……兵隊を相手に、何をするつもりだ」
「劇を見せるよ」
ハインリヒが大きく溜め息をついた。胃を押さえた。
「嫌な予感しかしない」
「安心して。ちゃんと台本を書くから」
「そっちの方が嫌なんだよ!!」
ルーチェの光が夕暮れの空に映えて、橙色の中に白が混じった。
ベルントが舞台の端を測定しながら何かをぶつぶつ言っている。
グスタフが自分の衣装の埃を払っている。
ジャハルが腕を組んで空を見ている。
俺はハインリヒの横顔を見た。
胃を押さえているが、目は記録帳に向かっていた。新しい名前を書き込んでいた。
(ハインリヒ。お前はやっぱり、劇団の人間だ)
明日の台本に、新しい光の演出を書き加えた。グスタフが吹き飛ぶタイミングに、台詞を合わせて。




