第6話:生きたいと思うなら、ここに立て!
馬車が揺れるたびに、俺のパンが少しずつかみ切れた。
固い。毎度のことだが固い。
前世のコンビニのパンが懐かしいが、口に入れば食える。食えるなら文句は言わない。
ただ今日は、パンより気になることがある。
ジャハルが、一言も喋っていない。
これが珍しかった。
この男はいつも何か言っている。
揺れが激しい。パンが固い。なぜ俺がこの場面を最初に出なければならないのか。
劇団の中で誰より声を出す役者だ。
それが乗り込んだ瞬間から黙っている。
馬車の端で腕を組んで、ずっと外を向いている。
稽古中もそうだった。台詞は完璧に入っている。動きも問題ない。
だが何かが足りない。何が足りないのか、昨日まではうまく言えなかった。
(今日、わかるかもしれない)
俺はパンを口に押し込んで、何も言わなかった。
目的地は王都から二日かけた国境近くの村だ。
ハインリヒが「辺境で試してみろ」と言って送り込んだ場所でもある。
娯楽が何もない土地だとも言っていた。貧しい。退屈している。
それが俺には好都合だった。
退屈な人間ほど、物語を待っている。
自分でも知らないまま、待っている。
―――
村に着いた時、子どもたちがすぐ集まってきた。
見慣れない馬車。見慣れない集団。
好奇心の塊が五、六人、遠巻きに眺めていた。
「ねえ、なにするの」
一人が俺に声をかけてきた。腹が減っていそうな顔の少年だった。
「舞台をやる」
「ぶたい?」
「芝居だよ。物語を人間が演じるやつ」
少年が首を傾けた。
「ぶたい」という言葉自体が知られていなかった。それで十分だとわかった。
先入観がない観客は正直だから、初めて観る人間に演じるのは俺は嫌いじゃない。
村の広場の端にテントを張った。
グスタフが骨組みを立て、母が布幕を縫い留めた。
ジャハルは荷物を降ろしながら「広場、狭くないか」と言った。
「十分だ」と俺は答えた。
「客が増えたら押し合いになる」とジャハルが言った。
「それが起きたら嬉しい問題だ」と俺は言った。
ジャハルが鼻を鳴らした。
そのまま、広場の中央をじっと見ていた。舞台になる場所を目で測っていた。
(あいつは本番前に場所を読む)
俺は気づいていた。言わなかったが。
そういう役者は、舞台に立った瞬間に化ける。
その条件が今夜なのかどうかは、まだわからなかった。
―――
夕暮れが近い頃に、村人たちが集まり始めた。
噂が早い。
「変な一団が何かやる」という情報が、村の隅々まで届いたらしかった。
農作業を終えた男たちが泥を落としながら立ち寄っていた。
子どもを連れた女たちが輪の外から覗き込んでいた。
老人が一人、近くの縁石に腰を下ろした。生きている時間が長い人間の座り方をしていた。
俺はテントの前に立って、声を出した。
「今日は物語をやります。コロシアムで奴隷が闘い、民衆を率いる話です」
静かになった。コロシアムという単語に反応があった。
この世界で「コロシアム」といえば血と死の見世物だ。
だが次の言葉で、空気が少し変わった。
「ただし、今日の話は。その奴隷が勝つ話です」
老人が顔を上げた。少年たちが口を閉じた。泥だらけの男が、隣の男と目を合わせた。
それだけでよかった。
―――
物語が始まった。
語り部は俺だ。
グスタフが剣士の敵役を演じる。
母が民衆の一人として端に立つ。
そしてジャハルが。コロシアムの奴隷が。中央に立った。
最初の場面は、鎖をつけられた男が命令を受ける場面だった。
ジャハルが膝をついた。頭を下げた。
俺はそれを見ながら、内心で止まった。
(あれは)
演じていない。
ジャハルが膝をついている。頭を下げている。
だがその肩の角度も首の傾き方も、これまでの稽古とまるで違った。
稽古の時は「膝をつく動作」だった。今は違う。
本当に一度だけ膝をついたことがある人間の。そのまま立ち上がれなかった時のことを、体が覚えている人間の。そういう重さがあった。
俺は台詞を続けた。声が少しだけ揺れそうになった。押さえた。
場面が進んだ。奴隷が戦い、傷を負い、それでも立つ。
グスタフの剣が迫る。ジャハルの体が一度だけよろけた。
稽古ではよろけなかった場所だった。
だがそのよろめきが、どこかでは嘘ではなかった。
観客が息を詰めた。
誰かが「頑張れ」と呟いた。聞こえた。俺にも聞こえた。
俺は台詞を続けながら、内心でずっとジャハルを見ていた。
今まで見てきた役者の中でも、あの種類の役者は少ない。
技術で演じるのではなく、記憶で立つ役者だ。
稽古で作れるものじゃない。
その人間がそれまでに何を経てきたかが、全部舞台ににじむ。
グスタフが倒れた。場面として倒れた。だがその倒れ方も、片腕を失った男の倒れ方だった。
俺が指示した倒れ方じゃない。グスタフが自分で作った倒れ方だ。
(この劇団は、俺が思ったより速く育っている)
―――
クライマックスが来た。
奴隷が最後の敵を打ち倒した。
コロシアムに沈黙が広がる場面だ。俺が語り部として「民衆は何も言えなかった」と言う。そこで。
ジャハルが振り向いた。
観客の方を向いた。剣の代わりに何も持っていない手を、前に突き出した。
その目が、台本にない光を持っていた。
「生きたいと思うなら、ここに立て!」
声が、村に響いた。
静かだった。
一瞬だけ、誰も動かなかった。
それから、老人が立った。
縁石から、ゆっくりと。足が不自由そうなのに。それでも立った。
次に泥のついた男が立った。子どもを連れた女が、子どもの手を握ったまま立った。
輪の後ろで覗き込んでいた少年たちが、気づいたら最前列にいた。
誰も何も言っていない。
ただ、立っていた。
俺は台詞を忘れた。
語り部として言うべき言葉があったはずだが、それより先に喉が詰まった。
四十二年の監督人生で何度も見た光景のはずなのに。なぜか今夜は、初めて見た気がした。
(これが、始まりだ)
俺はゆっくりと頭を下げた。それだけだった。他に何も言わなかった。
―――
終演後、ジャハルが舞台の端に座っていた。
俺はパンの残りを持って近づいた。食べるか聞こうとして、やめた。
「稽古と違った」
俺が言った。
「……わかるのか」
「監督だから」
ジャハルが鼻を鳴らした。否定はしなかった。
「あの場面で。よろけただろう。稽古の時はよろけなかった場所で」
「……足が滑った」
「嘘だ」
ジャハルが俺を見た。子どもを見る目じゃなかった。
「体が覚えてたんだろ。本当に膝をついた時のことを」
ジャハルがしばらく黙っていた。俺も黙っていた。村の夜風が吹いて、テントの布が鳴った。
「俺の代金。今日の分で、足りた」
俺は計算した。確かに足りる。今日の観客が投げ込んだ銀貨の量は予想の倍だった。
「明日から、自由だ」
「……そうか」
「どうする」
ジャハルが立った。腕を組んだ。少しの間、村の暗い空を見上げた。
「劇団に残る」
「え」
「……なんで驚いてんだよ」
ジャハルが俺を見下ろした。
「お前が残れって言いたいのはわかってた。だから先に言ってやった。感謝しろ」
「言ってないよ、そんなこと」
「顔に書いてある」
「俺はいつも同じ顔だよ」
「だから余計に読みやすい」
俺はパンを持ったまま少し固まった。言い返せなかった。
「……自由を手に入れてから残るのと、仕方なく居るのは違う」
ジャハルが少し顔を背けてそれだけ言った。
「それくらい、わかれ」
(こいつ、俺より台本の読み方がうまい)
俺は内心で舌を巻いた。パンの半分を差し出した。
ジャハルが黙って受け取った。一口かじった。
固い、という顔をした。俺も同じ顔をしていると思う。
二人でしばらく、同じ固さを噛んでいた。
―――
翌朝、ハインリヒが馬で追いかけてきた。
顔色が悪かった。いつもの「胃が痛い」顔とは違う種類の悪さだった。
「坊主。大変なことになった」
「何が」
ハインリヒが帳面を俺に突きつけた。開かれたページには、いくつかの名前が書かれていた。
「昨夜から各地で"立った"奴が出てきてる。コロシアムの奴隷が実際に声を上げたという話もある。俺が管理してる奴隷が三人、昨晩自己買取の申請を出してきた」
「法律上は正当だろ」
「正当だ。だが前例がない。領主が混乱してる。王都から使いが来るかもしれん」
俺は空を見た。晴れていた。
(革命って、そういうものだ。火をつけた後は、火が歩く)
「ハインリヒさん」
「なんだ」
「商売、続けられそうですか」
ハインリヒが長い沈黙の後に言った。
「わからん。ただ今の仕組みのままでは、続けられん気がしてる」
俺は答えなかった。
ハインリヒが帳面を抱え直した。
それから、珍しいことをした。もう一冊、薄い冊子を取り出した。
ページには名前と出身地と代金の記録が並んでいた。
「俺が管理してきた者たちのリストだ。自己買取を申請してきた者も、まだしていない者も含めて全員分ある。もし……もし俺がこの商売を畳む時が来たら」
ハインリヒが言葉を切った。
「お前なら、なんとかできるんだろう?」
俺はその冊子を受け取った。軽かった。だが重かった。
「やります」
短く答えた。それだけ言えば十分だと思った。
ハインリヒが馬に乗り直した。去り際に一度だけ振り返った。
「……お前に買われたのは、俺も同じかもしれんな」
俺は何も言わなかった。
言わなくてよかった。あの男が自分でそれに気づいたなら、俺が言葉にする必要はない。
―――
夕方、全員が移動舞台の前に集まった。
グスタフが飯の支度をしている。母が衣の繕いをしている。ジャハルが焚火の火を見ている。
もう鎖はない。腕を組んでいるのは以前と同じだが、その重さが変わった気がした。
俺はハインリヒから受け取った冊子をめくった。
名前が並んでいる。一人一人、ちゃんと名前がある。買取代金の数字がある。出身の土地がある。
(次の演目は、もう決まっている)
自由を手に入れた人間が、次に何を作るか。
その物語は誰もまだ書いていない。
だから俺が書く。それが監督という生き物の性分だ。
焚火に火が入った。橙色の光が四人の顔を照らした。
ジャハルが火の中に枝を一本くべた。グスタフが「飯できるぞ」と言った。母が何も言わずに立ち上がった。
俺はパンの最後の一欠けをかじって、冊子を閉じた。
明日の台本を、頭の中で書き始めた。




