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転生監督の異世界興行録 ~奴隷市場で拾った役者たちを舞台に上げたら、王国中が客席になった~  作者:


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第5話:客席に来てから言ってほしい

 ジャハルが舞台の端まで走った。板を踏んで止まった。


「生きたいと思うなら、ここに立て!」


 声量はある。動きもある。止まり方も悪くない。


 なのに何かが足りなかった。


 俺はパンをかじりながらそれを見ていた。固い。どこで買っても固い。顎が毎回仕事をしている。


「もう一回」


 ジャハルが端まで走った。また踏み切った。また止まった。また言った。


 同じだった。


「何が違う」とジャハルが言った。命令に近い聞き方だった。この男の質問はいつもこういう形をしている。俺には言ってやる義務があるという前提が、最初から入っている。


「お前が立ちたいと思っているかどうか」

「台詞だ」

「そうだよ。だからうまく言えない」


 ジャハルが腕を組んだ。


 何かを言おうとして、やめた。


 言えなかったのではなく、言える言葉が見つからなかった顔だった。


 グスタフが稽古場の端に座って見ていた。


 腕を組んでいた。目だけが動いていた。


 自分の出番の時と全然違う顔で、ジャハルを見ていた。


 母が袖の布を縫いながら横にいた。針を動かしながら、稽古を見ていた。


 こういう時の母は声を出さない。


 ただそこにいる。それだけで稽古場の空気が少し変わる。


 俺はパンをもう一口かじった。


 ハインリヒが飛び込んできた。


「坊主!! 役人が来た!!」


―――


 男の名はクレッチュマーといった。


 三十代後半。王国役所の服を着ていた。帳面を持っていた。


 ハインリヒと同じ道具だが、持ち方が全然違う。


 ハインリヒは帳面を使う時に体ごと前のめりになる。


 クレッチュマーは持ったまま直立している。


 道具が体の一部になっていない持ち方だ。


「拝見した台本の内容について、確認したいことがある」

「どうぞ」

「奴隷が支配者に反旗を翻す物語。現在の秩序に反する内容だ。上演は認められない」

「見てから言ってください」


 クレッチュマーが少し止まった。


「……見る前から問題はわかる」

「見る前に判断するのが一番もったいない見方ですよ。台本と劇は別のものだから。台本は設計図で、劇は建物だ。設計図を見て建物に入った気になるのはもったいない」

「台本に内容が書いてある。それを読んだ」

「設計図を読んでもその建物がどんな空気か、中に入った時に何を感じるかはわからない。


 劇も同じで、台本を読んだだけでは見た時にどう感じるかはわからない。


 俺が台本を書いた時と、お客さんが見た時とで、必ず何かが変わる。


 だから見てから言ってほしいんです」


 クレッチュマーが俺を見た。


 子どもが(しゃべ)っていることに慣れようとしている目だった。この種の目をする大人は多い。


 子どもの外見と中身が一致しないと判断するまでの間、こういう目になる。


 判断がつかないうちは書式から外れた処理ができない。


「要するに、上演はするということか」

「客席に来てから言ってほしいんですよ。見てから怒っても遅くない。見て何も問題がなければ、お互いの時間が節約できる」

「問題はある。台本に書いてある」

「見てみないとわからないよ。本当に」


 俺はクレッチュマーを見た。


「来てくれたら、お捻りは出さなくていいです。この話はあなたに見てほしいから」


 クレッチュマーが「……」という顔をした。役所の書式から少しはみ出た顔だった。書式に戻るために少し時間がかかった。


「上演した場合、後日改めて対応する」


 帳面に何かを書いた。帰った。


 ハインリヒが「坊主!! これは終わりだぞ!! 役人に目をつけられた劇団は次がない!! 引き上げだ!! 荷物をまとめろ!!」と言った。


 「終わってない。稽古に戻ろう」と俺は言った。


 「なんでそんなに落ち着いてるんだ!!」とハインリヒが言った。


 「パンをかじってるから」と俺は言った。


 「そういう問題じゃない!!」とハインリヒが言った。


 帳面を開いた。次の逃げ場所を書き始めていた。


 パニックの時でも手が動くのがこの男だ。


―――


 稽古に戻った。


 ジャハルがまた走った。また止まった。


「生きたいと思うなら、ここに立て!」


 さっきと同じだった。


 ジャハルが「また違うか」と言った。聞いているのではなく、自分に言っていた。


「ジャハル」

「なに」

「あの役人が来た理由、わかるか」

「この劇が危ないと思ったからだろ」

「危ないと思ったということは、力があると思ったということだよ」


 ジャハルが「だから何だ」という顔をした。


「力があると思わなければ来ない。来たということは、お前がまだうまく言えていないのに、あの台詞に意味があると思われたということだ」


「…………」

「本物になったら何が起きるか、俺にもわからない」


 ジャハルが黙った。組んでいた腕をほどいた。また組んだ。また考えていた。


(ここだ)


 役者が「台詞」を「言葉」に変える瞬間は、いつもこういう沈黙の中にある。


 うまくできないことを、恥だと思わずに置いておける。その間に何かが変わる。


 変わる前に急かすと、偽物の「できた」が出てくる。偽物の「できた」は一番いらない。


 今は待つだけだ。


 グスタフが静かに言った。


「あいつはいい台詞だな」


 それだけ言った。また腕を組んで稽古を見た。


 母が針を止めた。何も言わなかった。


 ただ、布から目を上げてジャハルを一度見た。


 また針を動かした。それだけだった。


 ジャハルがその視線に気づいたかどうかはわからない。


「もう一回やれ」と俺は言った。


 ジャハルが走った。


―――


 公演は翌朝やった。


 場所はジャハルが知っていた。


 「案内できる」と言ってそのまま歩き始めた。


 ついていくと街の外れの広場に出た。


 荷馬車が通れる広さの空き地だった。草が少し生えていた。端に石の塀があった。


 「ここで公演をやったことがあるのか」とハインリヒが聞いた。


 「ない」とジャハルが言った。


 「なぜ知っている」とハインリヒが聞いた。


 「昔逃げた時に隠れた」とジャハルが言った。


 ハインリヒが何も言わなかった。


 帳面に「場所の記録・要確認」と書いた。


 人が来た。ジャハルが昨夜のうちに声をかけていた。


 「来ると言った」と言っていた。来た。三十人ほど。


 スラムの出身らしい顔の者が多かった。


 生活に疲れた顔。それでも来た顔。


 舞台は板を二枚敷いただけだった。照明はない。昼間の光だけでやった。


 グスタフが夫の役で出た。母が妻の役で出た。ジャハルが革命を起こす奴隷の役で出た。


 台詞のない場面でグスタフが腕一本で全部を表現した。


 母が夫を見送る場面で、観客の中のどこかで息を吸い込む音がした。


 そしてジャハルが出た。


 走った。昨日の稽古と同じように、舞台の端まで走った。踏み切った。止まった。


「生きたいと思うなら、ここに立て!」


 今日は台詞じゃなかった。


 広場が静かになった。


 静かになり方が稽古の時と違った。


 息を詰める音がした。誰かが隣の誰かに触れる音がした。空気の密度が変わった。重くなったのではなく、膨らんだような変わり方だった。


(これだ)


 俺は袖でパンをかじりながらその空気を聞いていた。


 広場の端に、クレッチュマーがいた。


 来ていた。帳面を持たずに来ていた。仕事の服のまま、遠くに立っていた。


 ジャハルの台詞が届く場所にいた。


 ジャハルは客席を見なかった。真っ直ぐ前を見ていた。だから来ていることを知らなかった。


 それでいい。知らなくていい。


―――


 終演後、クレッチュマーは黙って帰った。


 何も言わなかった。俺の方に来なかった。近づかなかった。


 ただ広場の端から静かに動いて、街の方に消えた。


 禁止令は来なかった。翌日も。翌々日(よくよくじつ)も。


 三日後、ハインリヒが「……来ないな」と言った。


 禁止令の話だった。ずっと心配していた。


「そうだよ」

「なぜだ」

「来てくれたから」


 ハインリヒが「は?」という顔をした。


 「来てくれたから、か」とゆっくり繰り返した。


 意味を探っていた。見つからなかった顔をした。


 俺はパンの最後のかけらを口に入れた。


(来たじゃないか)


 客席に来てほしいと言った。来た。見た。黙って帰った。それだけだった。


 それだけで十分だった。


 禁止令が来なかった理由を、クレッチュマーに聞く気はなかった。


 聞かなくてもわかる。見てしまったのだ。見て、帰って、それきりにしたのだ。


 なぜそうしたかは、あの男の中にある話だ。俺が知る話じゃない。


 ただ、これがこの仕事の全部だと思った。


 来てほしい人間に来てもらう。見てもらう。それだけだ。


 来てから怒ってもいい。来てから禁止してもいい。来る前に決めないでほしいだけだ。


 白いページを広げた。次の台本の一行目を書き始めた。


 確信が来たのは、クレッチュマーが来た時ではなかった。


 黙って帰った時だった。

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