第4話:革命の火種
ジャハルは、一度断った人間が再び買いに来るとは思っていなかっただろう。
俺がハインリヒの帳面を持って市場に戻ってきた時、少年の顔が「何しに来た」という顔になった。わかりやすい顔だった。
「君を買う」
ジャハルが俺を見下ろした。さほど驚いていない顔だった。
「買い主が変わっただけだろ」
「違う」
ジャハルが鼻を鳴らした。「同じだ」という意味の音だった。
俺はしゃがんで、地面に転がっていた石を一つ拾った。特に意味はなかった。手持ち無沙汰の時の癖だ。
「自分で自分を買い取れる仕組みがある。舞台で稼いで、自分の代金を積み立てて、それが貯まったら自由になる」
「できるわけがない」
「なんで」
「そんなことができた奴が、どこにいる」
「ここにいる」
ジャハルが静かになった。否定はしなかった。「証拠がない」という顔をしていた。それは正しかった。証拠はない。俺にあるのは確信だけだ。
「だから、自分を買って。舞台で価値を作って、自由を掴んでよ」
ジャハルが一度だけ目を逸らした。
それからまた俺を見た。今度は「信じようとする」顔になっていた。まだ信じてはいない。信じようとしているだけだ。でも、それで十分だった。役者には「信じようとする力」が一番最初に必要だ。
ジャハルの怒りは、この数日で何も変わっていなかった。
依然として目が鋭く、口が少なく、近づいてくる者を値踏みした。
怒りを手放せない人間は多い。
怒りを燃料にできる人間は、そのうちの一握りだ。
ジャハルがどちらかは、舞台の上でしか判断できない。
でも俺には、判断する前から確信がある。
それがこの仕事のやり方だった。
―――
ハインリヒが移動舞台の話を持ち出したのは、それから数日後のことだった。
「場を作ってやる。その代わり、売上の一部は俺がもらう」
荷馬車を改造して移動劇場にする、という提案だった。テントを張れば簡易的な舞台になる。どこへでも移動できる。門前払いをくらっても、別の場所でやればいい。
「出資してくれるの?」
「あくまで取り分の先取りだ。出資と呼ぶな」
ハインリヒは帳面を叩きながらそう言ったが、顔は悪くなかった。奴隷商から興行主へ。本人に自覚があるかどうかは知らないが、俺にはわかった。この男は変わり始めている。
荷馬車の改造は、全員でやった。
母が布を縫った。グスタフが骨組みを組んだ。ジャハルは「やることがないのか」という顔で腕を組んでいたが、誰かが板を持ち上げようとして苦労していると、黙って手を貸した。それだけだった。それで十分だった。
できあがった移動舞台は、粗末なものだった。
軋む骨組み。雑な縫い目の布幕。斜めに張ったテント。だが舞台は、完璧である必要はない。観客が「これが舞台だ」と思えばいい。そう思わせる空気を作れればいい。
俺はパンをかじりながら完成した移動舞台を見渡して、内心で笑った。
どんな名劇場も、最初はこういうものだ。
正面から見ると、布幕が風に揺れて、舞台の縁がぼんやりと浮かぶ。
この「ぼんやり」が案外いい。
照明がない代わりに、観客が想像で補う。
想像の余白は、完璧な舞台よりずっと広い。
前世で何億もかけて作った舞台より、観客が自分の心の中で作り上げた舞台の方が美しかったことを、俺は何度も経験していた。
粗末で十分だ。
始まりとはそういうものだ。
―――
夜、焚火の前に全員が集まった時、俺は次回作の話をした。
「黒い肌の奴隷がコロシアムで勝ち上がり、民衆を率いて革命を起こす物語」
静かになった。
グスタフが焚火を見つめた。母が俺の横顔を見た。ジャハルが、視線だけを動かして俺を見た。
ハインリヒの顔色が変わった。
「……それは本当に"革命"が起きる演目じゃないのか?」
腹の底から絞り出したような声だった。
「起きるよ」
ハインリヒが続けようとした口を閉じた。俺は先に言った。
「観客の心の中でね。革命って、そういうものだから」
ハインリヒが額を押さえた。胃ではなく、額だった。
「まずい予感がするが、止める理屈がない」という顔だった。
ジャハルが焚火の方を向いたまま、静かに聞いた。
「主演は俺か」
「うん」
「……」
ジャハルがしばらく黙っていた。
それから、ぼそりと言った。
「台本、いつできる」
俺は焚火の火をながめながら答えた。
「もうできてる」
全員が少し驚いた顔をした。ハインリヒが「いつ書いたんだ」と言った。
「頭の中に書いてた」
半分は本当で、半分は嘘だった。正確には「前世でいくつか似た構造の作品を見ていて、このキャストに合わせて組み立てた」という感じだ。でも詳しく説明しても仕方ない。
ジャハルが一度、俺を見た。
何かを言いかけて、言わなかった。
焚火に目を戻した。
(そういう奴だ)
信頼を言葉にしない。行動でしか示さない。舞台に立った時にしか本音が出ない。そういう役者は珍しくない。むしろ好きな種類だ。
グスタフが焚火に枝をくべた。
母が膝の上で何かを縫っている。
明日から、稽古が始まる。
―――
その夜、ハインリヒが俺に近づいてきて小声で言った。
「坊主。一つだけ聞かせてくれ」
「なに」
「お前は、本当に"ただの劇"をやるつもりなのか」
俺は考えた。一瞬だけ。
「うん」
「……そうか」
ハインリヒが帳面を抱えたまま戻っていった。
信じていない顔だった。でも追及もしなかった。
結果が出るまで待つ。それが商人という生き物だ。
俺は焚火が小さくなっていくのを見ながら、台本の続きを頭の中で転がした。革命劇の核心部分。ジャハルに言わせる台詞。観客が立ち上がりたくなる、あの一文。
まだ言葉になりきっていない。
明日の稽古の中で、見つける。
(ジャハルはその台詞を、怒りながら言うことになる)
怒鳴る必要はない。叫ぶ必要もない。ただ、静かに。静かに言えば言うほど、観客は震える。舞台の上の怒りは、声の大きさとは関係ない。向こうで何かを燃やしている目の力が、客席まで届く。ジャハルの目は、それができる目だ。俺はそれを知っている。
役者と一緒に台本を完成させる。それが俺のやり方だった。




