第3話:自由の値段
ハインリヒの小屋は、紙埃の匂いがした。
帳面が積まれている。売買の記録。商品の一覧。人間の名前が「品名」の欄に書かれた台帳が、壁際にずらりと並んでいた。
俺はその小屋の中に入り、固い椅子に座って、ハインリヒの向かいに腰を落ち着けた。
「自分で自分を買う」
ハインリヒがその言葉を反芻するように繰り返した。
「奴隷が自分の代金を稼いで、自己買取をする仕組みがあるでしょう」
「法律上はある。やった奴は聞いたことがないが」
「これからはいる。舞台の収益から積み立てて、代金が貯まったら自由になる」
ハインリヒが帳面を閉じ、俺を見た。
子供に商売の話を聞かされている、という顔の商人が見せる顔。面白いとも馬鹿にしているとも取れる顔だ。
「そんな仕組みで、誰が働く気になる」
「自由になれるとわかってる人間は、誰より懸命に働く」
ハインリヒが少しだけ黙った。
その沈黙の中に、何かが引っかかっている気配があった。俺はそこを押さなかった。
「一度だけ試しましょう。上手くいかなければやめていい。それだけ」
商人というのは、リスクとリターンに敏感な生き物だ。ハインリヒは目を細めて帳面に何かを書き込んだ。「買い手予定」という三文字が、俺たちの劇団の最初の記録になった。
―――
稽古は、小屋の裏の空き地でやった。
母と二人で向かい合って、俺は言葉を選んだ。
「人を好きになる気持ちって、わかる?」
母が少し首を傾けた。何を言い出すのか、という顔をしていた。
「好きな人が、遠くへ行ってしまうとしたら。声が届かなくて。手も届かなくて。でもまだそこにいると信じてる。そういう気持ちって、想像できる?」
「……わかるよ」
母は静かに答えた。
いつもより声が低かった。
「じゃあ、その好きが届かないときの痛みも、想像できる?」
母の瞳が、揺れた。
ほんの一瞬だった。すぐに元の静かな顔に戻った。でもその揺れは確かにあった。
(これは、想像じゃない)
俺の中で何かが引っかかった。だが今は聞かない。聞く時じゃない。
「声にしなくていい。心の中に置いておいて。それだけでいい」
母が頷いた。
その横顔は、もうすでに役をまとい始めていた。
―――
黒い肌の少年に声をかけたのは、ある昼過ぎのことだった。
市場の端で壁に寄りかかって、鋭い目を向けてくる少年。漆黒の肌。しなやかな体。動きに無駄がない。怒りを内に秘めた表情が常にあった。
「舞台に興味ない?」
少年が俺を見下ろした。子供を見る目ではなく、値踏みする目だった。
「あんたみたいなガキに従う気はない」
「命令じゃないよ。頼んでるんだ」
「同じだろ」
「違う」
少年は背を向けて歩いていった。
俺は追わなかった。
(あの態度が、役に必要な"芯"だ)
素直でない。反抗的だ。だが、くだらない理由で曲がる種類の人間じゃない。追いかけて説得しても意味がない。あの目は「信じさせてみろ」と言っている目だ。いずれ戻る。
前世でも同じ顔をした役者がいた。舞台の前日まで怒っていて、本番で誰より輝いた。怒りを持っている人間は、それだけエネルギーを持っている。問題はそのエネルギーをどこへ向けるかだ。向かう場所さえ作れれば、誰より遠くまで飛ぶ。
俺はパンをかじりながら、少年の背中が見えなくなるまで見ていた。
―――
片腕の男を見つけたのは、その翌日だった。
市場の隅。疲れ切った目。折れたような背中。左腕を肩から失っている。残った右腕は太く、力強い。だが座ったまま動かない。
どこを向いているのか、よくわからなかった。誰かを見ているのでも、何かを考えているのでもなさそうだった。ただそこに座っている。まるで置き忘れられたように。
「片腕の戦帰りの男の役があって」
俺が声をかけると、男が顔を上げた。
「あなた以上の適役はいないよ」
男は数秒、俺を見ていた。
子供が何を言っているんだ、という顔をしかけて。
そのまま固まった。
「……自分で自分を買うんだよ。舞台に立って、稼いで、自由になる」
男が右手で床をつかんだ。力が入っているのがわかった。
「……あんたの劇団に、賭けてみる」
膝をついて言った。頭は下げなかった。下げなかったのは、この男の矜持だろうと思った。それでよかった。役者に必要なのは技術より、折れない何かだ。
男の名はグスタフだと、後で聞いた。
―――
初公演は、奴隷市の外れで行った。
ハインリヒが骨組みだけの簡易舞台を用意した。「これ以上はやれん」という顔をしていた。十分だった。
母が衣をまとい、グスタフが夫の役に立った。俺が語り部に回る。三人だけの舞台だ。
物語は前回と同じだった。夫を戦場に送り出した女の話。やがて帰ってこないとわかって、それでも待つ話。短い。ただそれだけの話だ。
だが今回は違った。
グスタフが台詞を言うのではなく、体で語った。片腕の体が、戦場から帰る夫の姿を作り上げた。傷を負って、それでも前を向こうとする男の姿だった。グスタフ自身がそうだったから、演じるのではなく、ただそこに在った。
母は舞台に立ち、遠くを見ていた。
稽古の時と同じ目だった。痛みの記憶を心の奥に置いたまま、静かに立っていた。
客が集まり始めた。
足を止めた者が、また足を止めた者を引き寄せた。やがて輪になった。
クライマックスで、母が静かに目を閉じた。
「夫の死を受け入れた女」が、音もなく舞台に立っていた。
誰かが息を呑んだ。
その音が聞こえた。
俺は前に出て、深く頭を下げた。
「お気持ちを頂けると嬉しいです」
最初の一枚が落ちた。銀貨だった。
それから次々と投げ込まれた。銅貨、銀貨、また銀貨。子供が銅貨を両手で持って走ってきた。おじいさんが財布から探して出てきた一枚を、よろめきながら投げ込んだ。
俺は舞台袖で静かに数えていた。
三人分の買取代金を超えた時、一度だけ目を閉じた。
(いける)
―――
ハインリヒが帳面を見て、しばらく黙っていた。
指で数字をなぞって、また黙っていた。
それから俺を見た。
「お前ら……一度の公演で三人分の自己買取、達成したぞ」
「うん」
「……」
ハインリヒが額に手を当てた。
胃を押さえなかったのは、今日は予想が外れたからではなく、外れた方向が良かったからだろうと思った。
俺はぼそりと言った。
「次の役者を探さないと」
ハインリヒが遠い目をした。
「坊主。お前、本気で世界を変えるつもりがあるんじゃないだろうな」
「劇を作るつもりはある。世界がそれでどうなるかは、客次第だよ」
グスタフが若手の役者たちに飯を食わせていた。
母が静かに衣を片付けていた。
ハインリヒが帳面に何かを書き込んでいた。
奴隷市の外れで、劇団が生まれた日の夜はそうして静かに更けていった。




