第2話:奴隷市の初公演
言葉を覚えるのは、思ったより早かった。
この世界の言語体系は、前世の俺がかじっていたヨーロッパ系言語に似た構造をしていた。単なる運がいいのか、それとも異世界転生にはそういう補正が入るのか、どちらでもよかった。使えるなら使う。それだけだ。
二歳になる頃には単語を並べられるようになった。
三歳に近づくと、ごく短い文章なら問題なく話せた。
奴隷市の人間たちは、喋る赤ん坊を少し珍しがったが、さほど騒ぎにはならなかった。
「頭がいい子だ」。
それだけで済んだ。
この世界では、頭のいい子供は高く売れる付加価値だったからだ。
その頃、俺は奴隷市の日常をひたすら観察していた。
毎朝、誰かが固くて薄いパンを一切れ渡してくれた。
母が先に受け取って、半分に割って差し出してくれる。
俺はそれをかじりながら、今日も市場の端で世界を見ていた。
硬い。
おそろしく硬い。
前世のコンビニ弁当が懐かしいが、文句は言わない。
食べられるなら食べる。
市場には毎日、さまざまな人間が来る。
商人、貴族の使い、軍人崩れ、普通の農民。目的はそれぞれだが、全員に共通することがひとつあった。退屈そうな顔をしていることだ。
この世界に、娯楽がない。
コロシアムがある。
剣士が血を流す見世物がある。
賭博もある。
酒もある。
だが血と酒の後に残るものは何もない。
翌朝には消えている。
それだけのものだ。
物語は違う。
ちゃんとした話は、翌日も残る。
翌年も残る。
人が死んでも残ることがある。
前世で何百年前の台本が今もどこかで演じられているのを、俺は知っている。
笑わせる劇がない。泣かせる芝居がない。台本に基づいて複数の人間が演じ、観客が見るという概念そのものが存在しない。吟遊詩人が一人弦楽器を弾いて「いい声だ」と言われれば、それが最先端だった。
俺にはわかる。あの顔はそういう顔だ。前世の通勤電車で見た顔。昼休みに天井を見上げている顔。刺激に飢えているが、刺激の場所を知らない顔。
この市場の人間は全員、劇を待っている。自分でも知らないまま、待っている。
パンを噛みながら、俺は毎日そう思っていた。
―――
ハインリヒは、俺が話しかけると最初だけ露骨に面食らった顔をした。
子どもが「売り方を変えたほうがいい」などと言ってきたのだから、無理もない。
「坊主。お前……本気で言ってるのか?」
「うん」
俺は奴隷商の小屋の入口にぼんやり立ちながら、市場の中央を指差した。
「俺が話をする。母さんはそこに立っているだけでいい。客は集まる。売り物として値段をつけるより、見せ物として価値をつけたほうがいい」
「……何を言ってるんだ、お前は」
「舞台だよ。俺はそう思ってる」
ハインリヒが帳面から目を上げ、俺をまじまじと見た。
面白いものを見る目じゃなかった。気味が悪いものを見る目だ。それでも、無視できなかった顔をしていた。
賢い商人は、理屈より結果で判断する。俺にはそれがわかった。説明は最小限でいい。やってみせればいい。
「一回だけ見てください。合わなければやめる」
ハインリヒは額に手を当てて、しばらく何かを考えていた。それから「好きにしろ」と言った。承諾の言葉にしては短すぎたが、それで十分だった。
―――
昼下がりの奴隷市は、いちばん客の流れが増える時間帯だ。
俺はハインリヒに市場の中央の一角を借り、ふらりと歩み出た。子供が一人で出てきたことを、最初に気づいた者が「なんだ?」という顔をした。それだけでよかった。
足を止めたら、もう始まりだ。
俺は息を吸って、声を出した。
「その日、彼は帰ってこなかった」
声が意外に通った。前世でも声だけは褒められた。澄んでいて遠くまで届く声だと。赤ん坊の体になっても、それは変わらなかったらしい。
話を続けた。脚本はない。即興だ。夫を戦場に送り出した女の話。待ち続けて、そして知らせだけが来る話。聴いてもらうために、ゆっくりと、はっきりと、言葉を選んで語った。
足を止める者が増えた。
通り過ぎようとした商人が振り向いた。子供を連れた女が立ち止まった。
俺は少しだけ横を向いた。
母が、そこに立っていた。
何もしていない。何も演じていない。ただ俺の語りを聞いて、立っている。それだけだった。
だが、俺の声が語る「夫を待つ女」と、目の前に立つ母の姿が、観客の中で自然に重なった。
母の目が、どこか遠くを見ていた。
表情は変わらない。ただ静かに、遠くを見ている。
それがなぜか、言葉にならない切なさを孕んでいた。
(うまい)
俺は内心で唸った。母は何も演じていないのに、演じている。いや、正確には違う。あれは演技ではない。だが何かが滲み出ている。何が滲み出ているのかは、今はまだわからない。
話を終えた。
最後の一文を言い切って、そのまま静かに頭を下げた。
誰かが息を吐いた。それが聞こえた。
しばらく、静かだった。
そして、銅貨が一枚、砂の上に落ちた。
次に銀貨が来た。それから銅貨が三枚。また銀貨。
「あの女を買いたい」
野太い声が飛んだ。
「俺も」「値段はいくらだ」「いくら出せばいい」
声が重なった。俺は頭を上げ、横にいるハインリヒを見た。ハインリヒは帳面を持ったまま、口を半開きにして固まっていた。
俺はパン屑が服についているのを払いながら、それだけを言った。
「どうですか」
―――
日が傾く頃、ハインリヒがぼそりと言った。
「……なるほどな。お前たちは"売り物"じゃないのか」
認めたくない口ぶりだった。だが認めていた。商人がいちばん正直になるのは、数字が出た時だ。今日一日で集まった金がそれを証明していた。
俺は答えなかった。母が俺の頭に手を置いた。静かな手だった。
(よし)
脚本の書き方は、感触でわかる。今日の公演は及第点だった。及第点に過ぎない。本番はここからだ。
語り部として俺は半分しか機能していなかった。
観客の目は話の途中から、俺ではなく母に向かっていた。
それでよかった。
主役が輝けば、語り部の仕事は終わっている。
だが次の演目では、その光を意図して作れなければならない。
偶然に頼る舞台は、再現できない。
次は台本が必要だ。舞台も必要だ。材料を揃える。一から作る必要はない。この世界の人間が知らない劇を、俺はすでに何十本も頭の中に持っている。あとは、この世界の役者に合わせて組み直すだけだ。
母は何も言わなかった。ただ俺の頭に手を置いたまま、少しだけ微笑んだ。
それがどういう意味の微笑みなのかは、まだわからなかった。
でも、一つだけわかったことがある。
この劇団の看板は、決まった。




