第1話:残念!監督は死んでしまった!
スタジオの光は薄かった。
天井の蛍光灯が一本だけ点滅を繰り返している。気づいている者はいるはずだが、誰も変えない。変える時間があれば台本の確認をしたい。そういう現場だった。
机の端に積まれた台本。空になったコーヒーカップが三つ。誰かが踏んだ絵コンテが床に広がっている。壁のキャスティング表には、オーディションで選んだ顔がずらりと並んでいた。
黒崎蓮は、そのどれにも目を向けずに電話口の声を聞いていた。
四十二歳。
映画監督であり、舞台監督でもある。
ジャンルにはこだわらなかった。
良い作品が作れるなら、媒体は何でもよかった。
才能がある、と言われてきた。
少なくとも三十代の頃は。
今は「難しい人」と言われる。
いつからかは忘れたが、気づいたらそう呼ばれるようになっていた。
難しい人。
なるほど。「役に合った人間を使いたい」という主張が、この業界では「難しい」扱いになるらしい。
「ヒロインの役なんですが、うちが推してるタレントに変えていただけませんか。ファン層のことを考えると」
「考えてます」
遮った。
電話口の担当が言葉を詰まらせる。
「俺はずっと考えてる。この役に誰が合うか。どんな台詞を誰に言わせるか。オーディションで何十人も見て、この人だと思った顔を選んだ。何も考えていないわけじゃない」
「それはわかります。ただ、多様性の観点から」
「多様性は、役に合った人間を使うことから始まるんじゃないですか」
電話口が静かになる。
二秒。三秒。
「……再考、お願いします」
「できません」
電話を切った。
立ち上がり、壁のキャスティング表を見る。オーディションで選んだ顔が並んでいる。全員、この役のために選んだ顔だ。背景も経歴もバラバラ。ただ、この台本に合う。それだけが俺の基準だった。
受賞した映画がある。視聴率を取ったドラマもある。それが全部霞むくらい、「コンプラ」と「配慮」と「スポンサーの意向」が降り積もっていた。一度屈けば、次はもっと容易に屈かされる。だから屈かない。屈かないが、積もり続ける。
才能ある人間を、役に立てさせたい。
ただそれだけのことが、なぜこんなに難しいのか。
最初に妥協したのはいつだったか。あの時、タイトルに口出しされて黙った。次に配役に圧をかけられて、一人だけ変えた。そうやって少しずつ、俺の舞台ではなくなっていく。気づいた頃には、誰の舞台でもないものが完成している。
受賞した。それでも虚しかった。俺の台本じゃない。俺の配役じゃない。俺の演出だけが残った作品が評価されても、祝いの席で笑えなかった。
壁のキャスティング表を見る。あの顔たちは、今どうしているだろう。
役に合った人間を、役に立たせてやれなかった。
「コンプラなんざくそ食らえ」
誰もいないスタジオに向かって呟いた。
灰皿をつかんで、壁に向かって投げた。
ガン、と音がして。
跳ね返った灰皿が、足元に転がってきて。
俺はそれに躓いた。
体が傾く。
反応が追いつかない。
床が近い。
――あ。
額が床に当たる感触だけがあって、それから何もなくなった。
情けない死に方だ、と思う間もなかった。思えたとしても、誰にも言えない。灰皿に躓いて死ぬ監督なんて、どのシナリオにも書いてない。
ナレーション風に言うなら――。
残念! 監督は死んでしまった!
―――
目が覚めた時、俺は泣いていた。
自分でも驚くほど澄んだ声で。
泣き声が勝手に出ているだけで、俺自身はまったく泣きたくない。ただ体が勝手に動く。肺に空気が入って、出るたびに声になる。赤ん坊の体とはそういうものらしい。
理解はしている。理解はしているが、情けない。
体が小さい。腕が動かない。首が重い。
視界は霞んでいて、だが匂いだけが妙に鮮明だった。鉄の匂い。土の匂い。革と汗と、遠くから染み込む獣の臭気。
怒鳴り声が聞こえる。値踏みするような目が次々と通り過ぎていく。鎖の音。金属のぶつかる音。足元を砂埃が流れていく。
――奴隷市か。
前世の感覚で言えば、歴史ドラマのロケセットに放り込まれたような光景だ。ただし、匂いが本物だった。撮影スタジオで用意していた「それっぽい匂い」じゃない。本物の、生きている人間が煮詰まった匂いだった。
四十二年間、舞台と映画の裏側でばかり生きてきたが、さすがにこれは想定外だ。
きちんと観察しなければならない。赤ん坊の泣き声を上げながら、目だけを動かして世界を読んだ。
市場の端には酒瓶を抱えた男が寝ている。広場の中央では何人かが賭博をしている。遠くから太鼓の音が聞こえると思ったら、喧嘩の音だった。
吟遊詩人が一人だけいた。弦楽器を持って、誰にも聞かれずに弾いている。
――あれが、この世界の娯楽の最先端か。
詩人が一節を弾き終えた。誰も拍手しなかった。詩人は気にした様子もなく、また最初から弾き始めた。俺はその詩人と、詩人を見ようとしない群衆を交互に見た。
知らないものは、欲しがれない。
だが知れば、欲しくなる。
そういう種類のものがある。
物語はそれだ。
前世で何百もの観客がそれを証明してくれた。
号泣した後の顔で、笑って帰る客を何十回も見てきた。
どんな世界でも、人間が人間である限り、物語は刺さる。
演劇という概念が、まだ発明されていない。物語を複数の人間で演じ、観客に見せるという発想が、まだどこにも存在しない。そういう世界だった。
コロシアムはある。殺し合いは見世物になっている。
だが、物語は? 笑いは? 泣かせる仕掛けは?
ない。
まだ、誰も知らない。
だが。
次の瞬間、そんな観察はどこかに消えた。
俺を抱いているのは、女だった。
銀に近い金髪。深い青の瞳。
ただそこに立っているだけで、周囲の空気が変わるような存在感がある。表情は少ない。何を考えているかわからない。それでも目を離せない。
周囲の目が、彼女に吸い寄せられていた。値踏みする目。欲のある目。侮りの交じった目。それでも全員が、一度は彼女を見た。一度見たら、しばらく見続けた。
生涯で、あれだけの顔を見たことがなかった。
映画で。
舞台で。
数えきれないほどの女優を見てきた。
声のいい女、動きの美しい女、泣き方の上手い女。
でも、そのどれとも違う。
技術でも経験でもない。
ただそこに存在しているだけで、何かが変わる。
舞台でいちばん難しく、いちばん希少な才能だ。
(この女を……舞台に立たせたい)
これが最初の感情だった。
母親が自分を抱いているというのに、まず「舞台に立たせたい」と思った。
我ながら、どうかしている。
だがこれは前世から変わらない俺の性質だ。
才能のある人間を見ると胸が焦がれる。
性別も年齢も関係ない。
ただ「この人を舞台に立たせたい」という確信が湧いてくる。
前世でも同じだった。
歩き方を見ただけで「この人は主役になれる」とわかった。
台詞を一行だけ読ませて「この人はこの役じゃない」とわかった。
説明できない。
だがいつも当たった。
それが監督という生き物の唯一の才能だ。
そしてその才能が、泣き止まない赤ん坊の体に宿ったまま今もここにある。
奴隷商が近づいてきた。がっしりした体格。目つきが鋭い。帳面を抱えて金勘定の速そうな顔。母子を一瞥して値段を弾き出す、そういう目をしていた。
「ガキは高く売れる。美しい女もだ」
俺は泣き声を上げながら、内側で冷静に考えた。
戦乱が終わったばかりの世界。社会が荒廃している。娯楽がない。人々は酒場の喧嘩と賭博で鬱憤を晴らしているだけだ。吟遊詩人一人が最先端の文化だ。演劇という概念が、まだ発明されていない。
なら、大衆演劇の需要は必ずある。誰も知らないなら、俺が最初になればいい。コンプラもない。スポンサーもいない。「多様性の観点」も「ファン層への配慮」も、この世界には存在しない。役に合った人間を、役に立てていい世界だ。
(この世界で、劇団を作る)
確信だった。根拠のない確信だったが、それでよかった。俺はいつも確信から動く男だ。
赤ん坊の体で泣きながら、内側では笑っていた。
さあ、始めよう。
母が俺を抱き直した。静かな手だった。力強いわけでも、優しいわけでもない。ただきちんと抱いている。それだけの手だった。でもその手が、どこか舞台の緞帳に似ていた。ここから始まる、という合図のような手だった。
俺は赤ん坊らしく泣き続けながら、次の台本のことを考え始めた。まず言葉を覚えなければならない。それからこの奴隷商を味方につける方法を考えなければならない。
俺にできることを数えた。前世の演劇知識。脚本の構造。観客の心理。演出の技術。数えてみると、意外とある。赤ん坊の体以外は、ほとんど残っている。
この世界に、演劇という概念はない。劇場という建物はない。演じることを生業にした人間もいない。
だが、舞台を作るのに必要な一番大事なものだけは、すでにある。
主役は、もう決まっている。
―――
ひとつだけ、気になることがある。
死因が、灰皿の転倒だということだ。
これは誰にも言えない。絶対に言えない。墓まで持っていく。
いや。
もう死んでるか。




