第30話:前世の亡霊
依頼が来た。
大きな依頼だった。大陸でも指折りの大商会が、記念公演の演出を頼みたいと言ってきた。
予算は今まで見たことのない数字だった。
ハインリヒが帳面を見ながら「この金額は、劇団が三年食えるな」と言った。
「どんな内容?」
「商会の百年史を劇にしてほしいとのことだ。創業者の苦労話、拡大の過程、現在の繁栄を一本の演劇にまとめて、取引先や貴族を招いた祝賀会で披露する」
ハインリヒが資料を渡してきた。分厚い羊皮紙の束だった。
「……やってみる」
ハインリヒが「本当にやるのか」という顔をした。「やる」と俺は言った。
―――
三日後、台本の書き出しを始めた。
書き始めた。一行目を書いた。消した。また書いた。また消した。
パンをかじりながら、白いページを見た。
(前世の仕事みたいだ)
映画の企業PRの仕事を思い出した。
スポンサーの商品を自然な形で映像に組み込む、誰でもわかるやつだ。
俺が一番嫌いだった種類の仕事。
台本を書くたびに「ここでうちの商品を出してくれ」「セリフに会社名を入れてくれ」「もっとポジティブなイメージで」という声が来た。
(それで灰皿を投げたんだったな。結局転んで死んだけど)
書けた。書けたが、面白くなかった。
五日後、ハインリヒに見せた。
「どうだ」
「……読みやすい」
「面白い?」
ハインリヒが少し間を置いた。それが答えだった。
「俺が見たことのある監督の台本とは、少し違う」
「違う?」
「お前の台本はいつも、読んでいると舞台が目に浮かぶ。この台本は……事実の羅列が整然としている。悪くない。だが」
「浮かばないんだろ」
「……ああ」
俺はパンをかじった。硬かった。
―――
七日後、ジャハルに台本を渡した。
「稽古してみてくれ」と言った。
ジャハルが三ページ読んで「これ、俺が演じる話か?」と言った。
「そうだよ」と俺は言った。
ジャハルが「監督らしくないな」と言った。
それだけ言って、台本を返してきた。
「続きは?」
「ない」
「残りはどこだ」
「書けてない」
ジャハルが腕を組んだ。「何があった」という顔で俺を見た。
「依頼が来た。真面目な商業劇。予算は大きい」
「それでこれか」
「そうだよ」
「……監督」
「何」
「俺がお前の台本で初めて動けたのは、書いてある言葉が本物だったからだ。誰かに言わされた言葉じゃなかったから。あの言葉は今でも覚えてる」
ジャハルが立った。
「これは本物じゃない。そういうことだろ」
俺は何も言わなかった。
―――
九日目の夜、商会の担当者に会った。断るためだ。
「申し訳ないが、引き受けられない」
「なぜだ。予算の問題か? 増額の余地は――」
「予算じゃない。俺では向いていない仕事だとわかった」
担当者が「どういうことか」という顔をした。
「俺が書けるのは、嘘のない話だけだ。あなたたちの百年史は事実だ。ただ、事実を並べても劇にはならない。そこに嘘が必要になる。あなたたちは多分、その嘘は困る」
「嘘?」
「都合のいい部分しか見せない話にするという意味じゃない。
人間が一番動く場所というのは、成功の話じゃなくて、失敗して立ち上がった場所だ。
創業者が一番惨めだった夜の話。
金がなくて眠れなかった夜の話。
そこを書かせてほしいと言ったら、あなたたちは困るだろう」
担当者が黙った。
「そういうことか」
「そういうことだよ」
担当者が少し考えた後、「わかった」と言って帰った。その後ろ姿を見ながら、俺は少し軽くなる感覚があった。
(やっぱり俺にはできない。あれが俺の仕事じゃない)
―――
翌朝、白いページを広げた。
今度は何も決めないで書き始めた。商会の話でも、依頼でも、昨日の出来事でもない。ただ頭の中にある輪郭を追いかけた。
形になったのは一時間後だった。
登場人物は一人。名前はない。職業は「作る者」。
何かを作ろうとして作れなくて、作れないことに気づいて、それでも作り続ける男の話だ。
台詞はほとんどない。動きだけで語る。
グスタフに見せた。
「これ、俺がやる話か」
「向いてると思う」
「何の話だ」
「前に進む話」
グスタフが台本を読んだ。一回読んで、また読んだ。
「……飯、食ったか? ちゃんと食えよ」
グスタフらしい言い方だった。台本への感想がそれだった。
俺は「食ってる」と言った。
「パンだけじゃないぞ、ちゃんとした飯だ」とグスタフが言った。
「わかった」と俺は言った。
(前世でも今世でも、同じものが俺を引き戻す)
誰かに向けて書いた言葉。届けたい誰かがいる言葉。それだけが動く。
それ以外のものは俺には書けない。知っていたことだが、忘れていた。
依頼の話を断ってから、ハインリヒが「三年分の収入が」とつぶやいていた。
俺は「次の公演で取り返す」と言った。
ハインリヒが帳面で顔を覆った。胃を押さえた。
俺はパンをかじりながら台本の続きを書いた。今度は止まらなかった。
―――
その夜、ジャハルが稽古場に来た。
新しい台本を渡した。ジャハルが読んだ。
一枚目から顔が変わった。
「これだよ」
それだけ言った。俺は「そうだよ」と言った。
「依頼は断ったのか」
「断った」
「前世でもそういうことをしてたんじゃないか、お前」
俺は少し止まった。
ジャハルは前世の話を知らない。知るはずがない。ただこの男は、俺の本質を最初から見抜いている。
「そうかもな」
「だから死んだんじゃないか」
「……だいたいそんな感じだよ」
ジャハルが「変な監督だ」と言った。また腕を組んだ。だが目がすでに台本の続きを追っていた。
夜が深くなった。
誰かが笑っている声がした。
クラウスの連中が飯を食っている声だった。
フィンが「きらきらしてる!!」と言っているのが聞こえた。銀製の皿でも出てきたんだろう。
俺は白いページの最後の行を書いた。
前世の亡霊は、また消えた。




