第28話:名女優の始まりの場所
帰ってきた。
俺たちが旅立った街だ。石畳の色。城壁の形。城門のそばにある大きな広場。
十年近く経っても、街の骨格は変わっていない。人だけが増えた。荷物だけが増えた。それだけだ。
ハインリヒが「懐かしい顔をしているな」と言った。
俺は「別に」と言った。
「お前が一番懐かしそうにしている」とハインリヒが言った。
「パンをかじりながら立ち止まって眺めている監督を、懐かしいと言わずに何と言う」
「観察だよ。台本に使えるものがないか見てる」
「そうだな。そういうことにしておく」
ハインリヒが帳面を開いた。
「この街の公演予定、三日後だ。準備に時間がいる」と言った。
俺はパンの残りを口に押し込んで「わかった」と言った。
―――
問題が起きたのは翌日だった。
街の有力商人が俺に会いたいと言ってきた。
断る理由がないので会った。男の名前はヴェスカといった。太り気味の顔。笑いながら目が笑っていない種類の顔だった。
「監督どの。一つ確認したいことがある」
「何」
「あなたと、あなたの母上は……かつてこの街の奴隷市を通ったと聞いた。事実か」
俺はヴェスカを見た。
「事実だよ」
「……本当に認めるのか」
「事実だから」
ヴェスカが「ほう」という顔をした。続けた。
「王国公認の劇団の監督が、元奴隷の子どもとなれば……その資格を問い直す声も出よう。知らぬ顔で通れたものを、なぜ認める」
「聞かれたから答えた。それだけだよ」
ヴェスカがしばらく俺を見た。子どもを値踏みする目で。昔、よく見られた目だ。奴隷市にいたころ、大人が全員こういう目をしていた。
「……明日、私の主催する集まりで公表しよう。元奴隷の子どもが劇団長を名乗っているという話は、各方面に知らせるべきだ」
「どうぞ」
俺は立ち上がった。
「その代わり、俺たちも明日公演をやる。奴隷市の広場で」
ヴェスカが固まった。
―――
夜、母に話した。
「明日、始まりの場所で公演をやる」
母が少し間を置いた。
「奴隷市の広場ね」
「そうだよ。嫌ならやめる」
「嫌じゃないわ」
母は静かに言った。窓の外を見ていた。この街の夜の景色は、あの頃から変わっていない。街灯の数が増えただけだ。
「怖い?」
「少し。でも」
母が俺を見た。
「あなたが最初にここで声を上げた場所でしょう。わたしがそこに立たない理由はない」
俺はパンの最後のかけらを口に入れた。
(この人が世界一だと、最初から知っていた)
―――
翌朝、ヴェスカの集まりで話が広まった。
「天才子ども監督の劇団は、元奴隷の母子が立ち上げた」
街が揺れた。驚きと、好奇と、嘲笑と、いくつかの感情が混ざった反応が来た。
同じ日の昼過ぎには、ベルントが奴隷市の跡地の広場に舞台を組み終えていた。
人が集まってきた。
ヴェスカの話を聞いた者が来た。元々公演を楽しみにしていた者が来た。野次馬が来た。商人が来た。兵士が来た。城主の使いらしき者も来た。
俺は舞台の袖から広場を見た。
ここだ。最初に母が立った場所。俺が最初に声を上げた場所。あの時は舞台もなく、台本もなく、照明もなかった。俺たちと観客だけがいた。
今は全部ある。
母が袖に来た。衣装を着ていた。白い衣装だ。あの日と同じ色を、俺が選んだ。
「準備できてる?」
「ええ」
「台詞は覚えてる?」
「今日は台本がないでしょう」
俺は何も言っていなかった。台本を書かなかった。書けなかったのではなく、書く必要がないと判断した。
「今日は何を演じるの」
「あなた自身だよ」
母が少し目を細めた。
「わたし自身」
「ここで売られた女が、世界を旅して帰ってきた。それだけを見せてくれ。それが今日の劇だ」
―――
母が舞台に出た。
ルーチェの光はいつも通りだった。ただ今日は色がなかった。白い光だけだった。
母はまず広場の中央に立って、ゆっくり一回りした。昔を見るようにして広場を見た。客席ではなく、空間を見た。
静かになった。
それから話し始めた。台詞ではない。語りだった。
「ここで、わたしは値段をつけられた」
声が広場に広がった。美しい声だった。感情を抑えているのに、抑えた感情の形が全部見えた。
「値段をつけられた日のことを、今もよく覚えている。怖かった。みじめだった。でも」
母が正面を向いた。
「ここで、わたしの息子が最初に声を上げた。劇をやると言った。まだ幼かった。けれどその声は、今まで聞いた中で一番きれいだった」
客席の中で、誰かが動けなくなっていた。
「その声が聞こえた日から、わたしは生きることにした。もう一日。もう一日と。そうしているうちに、世界の果てまで来てしまった」
母が笑った。舞台でめったに笑わない人が、今日初めて笑った。
「ここに帰ってきた。今日、わたしはここで歌います」
メルセアが袖から静かに声を添えた。夢灯の旋律が流れた。
母が歌った。台本のない歌だった。台本がないのに始まりがあって終わりがあって、真ん中に何かが確かに入っていた。
ヴェスカが客席の中にいた。腕を組んで立っていた。終わるまで、腕を組んだまま動かなかった。
―――
終演後、ヴェスカが俺の前に来た。
「……何を狙っていた」
「何も」
「嘘をつくな」
「ほんとに何も狙ってない。今日はただ、あの場所でやりたかった。それだけだよ」
ヴェスカが俺を見た。長い間。
「お前の話が広まった後、あの女優の評判はどうなると思う」
「知らない。考えてないよ」
「……考えていなかった、か」
ヴェスカが少し笑った。さっき見た目と、笑い方が変わっていた。
「私の話を伝えた者たちが、今ごろあの舞台の話もしているだろう。どちらが広まるかは、わかるな」
「どちらでもいいよ。お捻りがもらえれば」
ヴェスカが「本当にそれだけか」という顔をした。俺は「本当にそれだけだよ」と言った。
ハインリヒが横から「坊主、帰るぞ」と言った。俺は「うん」と言った。
夜が来た。広場に人が残っていた。
帰らないでいる人たちが、今日見た舞台の話を小声でしていた。舞台が終わっても続いている声が聞こえた。
(これが全部だ。これで十分だ)
俺はパンをかじりながら、母の後ろを歩いた。
母は振り返らなかった。真っ直ぐ前を向いて歩いた。
始まりの場所を背に、次へ向かう歩き方だった。




