第21話:眠りの中の恋
メルセアが稽古を抜けたのは、夕暮れ頃だった。
誰も気にしなかった。稽古の合間に外に出ることはある。
ルーチェが照明の調整を続けていた。
ローレンツが台詞の確認をしていた。
ジャハルが壁にもたれて目を閉じていた。眠っているのか考えているのかわからない姿勢だった。
俺は一人で港の端に向かった。
メルセアが岩の上に座って海を見ていた。歌っていた。小さな声で、誰にも聞かせない歌い方で。
俺は少し離れた場所に腰を下ろした。パンをかじりながら、聞いた。
聞いたことのない歌だった。台本にない。稽古でも出てこなかった。でも聞き覚えのある声の形をしていた。誰かに向けて歌っている声の形だ。
メルセアが気づいて歌を止めた。
「……聞いていたの」
「うん」
「盗み聞きだよ」
「そうかも。でも、いい歌だった」
メルセアが海に視線を戻した。
「……誰かへの歌?」
俺が聞いた。メルセアが少し間を置いた。
「昔、好きな人がいた」
静かな声だった。
「人間の男。港で会った。声が良かった。話が面白かった。わたしが海の話をすると、飽きずに聞いてくれた。好きになった」
「告白した?」
「できなかった。歌うと眠ってしまうから。一緒にいる時間が長くなるほど、眠らせてしまう時間が増えた。想いを伝えようとするほど、目を閉じさせてしまう。声が届かなかった」
波が来た。
「その人は今、どこにいるの」
「知らない。別の港へ行った。もう会っていない。会えたとしても、歌う以外に伝える言葉を持っていないから、今でも同じだと思う」
俺はメルセアが今歌っていたものを考えた。誰にも聞かせない声の形。向けている先がある歌。
「その歌、台本に入れたい」
メルセアが俺を見た。
「あの歌を?」
「うん。眠りの中でだけ聴こえる歌という設定にする。告白が届かなかった人間が、それでも声を出し続ける。眠っている間だけ届く歌を歌い続ける。そういう場面を書く」
メルセアがしばらく黙っていた。
「……それは。その人への歌を、舞台で歌えということ?」
「舞台の上でなら、言えることがある。言えないことでも」
「届かないのに?」
「届かなくていい。歌ったという事実が残る。観客に届く。それが舞台だよ」
―――
三日かけて、場面を書いた。
『夢灯』の中に、新しい一幕を加えた。
眠ることで夢の世界に行ける少女が、夢の中でだけ届く歌を歌う場面。
現実では声が届かない相手に向けて、夢の入口で歌う。
観客は夢の中にいるから聞こえる。
相手の耳には届かないが、劇場にいる全員には届く。
その構造を、メルセアに説明した。
「わかった。やってみる」
稽古の初日。メルセアが場面に入った。
照明がルーチェの光で変わった。青から深い紫へ。夢と現実の境目の色だとルーチェが言っていた。その色が舞台を包んだ。
メルセアが歌い始めた。
港の岩の上で歌っていたあの歌だった。
ただし今日は少し違った。誰にも聞かせない歌い方から、全員に届ける歌い方へ。
告白できなかった声が、舞台の上で初めて向かう先を見つけた声に。
グスタフが「……すごいな」と呟いた。
ジャハルが腕を組んだまま動かなかった。
ローレンツが義足を止めた。
母が舞台の袖でメルセアを見ていた。その目が、遠くを見ていた。
(母さんも、わかるんだろう)
声が届かなかった経験。届けたくても届かなかった時間。それが何年も経った後に、別の形で出てくる。
舞台がそれを引き受ける。引き受けた後は、少し軽くなる。完全には消えないが。
この劇団には、届かなかった声を持っている人間が多い。
ジャハルの怒りも、届かなかった声だ。
グスタフが片腕をなくした夜の話も、誰にも話せなかった声だ。
ローレンツが仲間を失った夜の記憶も、長い間、どこへも行けなかった声だ。
舞台がその声を引き受けて、観客に届ける。
それがこの劇団がやっていることの、一番正確な言い方だと思う。
稽古が終わった。
メルセアが俺に言った。
「歌えた」
「うん」
「届かなかったけど。でも、歌えた」
「それが全部だよ」
メルセアが海の方を向いた。
「……ありがとう、監督」
「礼はいらない。お捻りをもらえれば十分」
メルセアが小さく笑った。
「あなたって、本当に監督ですね」
「そうだよ。ずっとそうだ」
―――
その夜、台本に書き足した。
この場面を『夢灯』と名付けた。夢の中の灯り。届かなくても灯り続ける火。
名前を書きながら、俺は母のことを考えた。届かなかった声を持っていた人間が、もう一人いる。夫を待ち続けた女。声が戻ってこなかった夜が続いた人間。
その人も舞台で歌える。
次に書く台本は、その歌を中心に据えようと思った。まだ形にはなっていない。でも確信だけがある。確信から動くのが、俺という監督の性分だから。
パンを口に押し込みながら、白いページの一行目を書いた。
消して、また書いた。
港の夜が深くなっていった。




