第19話:新大陸の喧騒
船旅は三週間かかった。
ハインリヒが船酔いで死にそうな顔をしていた。
ルーチェが「大丈夫ですか」と心配していた。
ベルントが船の構造を観察して「この梁の組み方は面白い……」と言い続けていた。
グスタフが「飯食えるか」とハインリヒに声をかけていた。
ジャハルが海を見ていた。
メルセアだけが船上で完全に生き生きしていた。「海が好き」と言いながら舳先の近くに立っていた。セイレーンなので当然かもしれない。
俺はパンをかじりながら台本の続きを書いていた。
波が来るたびに手元が揺れた。それでも書いた。波のリズムに文章のリズムを合わせると、意外と書ける。これは前世で発見したやり方だ。
新大陸が見えてきた時、甲板に全員が出た。
見えてきた陸地は、思ったより大きかった。緑が濃い。港がある。人の営みがある。
(また、娯楽のない土地かな)
そう思ったが、後で違うとわかった。
新大陸には吟遊詩人より少し発達した形の音楽文化があった。
歌に合わせて踊る文化がある。打楽器がある。ただ「複数の人間が役を演じて物語を語る」という演劇の概念は、ここにもなかった。
入港した時点で、ローレンツと出会った。
―――
正確には、ローレンツが最初から目に入っていた。
港の酒場の前に、足を投げ出して座っている男がいた。恰幅がいい。真っ赤な顔。右足が義足だった。
杖を使わず、義足そのものを地面に打ちつけながら移動していた。大笑いをしていた。笑う理由が何もない場所で笑っていた。
「あの人、誰」
俺が港の者に聞くと「ローレンツさんですよ。元海賊」という答えが返ってきた。
「今は?」
「今は大体そこにいます。朝から」
(元海賊が朝から港の酒場前で笑っている)
役者だと思った。根拠はない。だが前世からの癖で、「この人を舞台に立たせたい」という感触が来た時は大体そうだ。
前世で四十年以上監督をやっていると、この感触が来る瞬間を見分けるようになる。
立てるかどうかは別の話だ。立った時に何かが起きるかどうかの感触だ。
ローレンツからはその感触が来た。義足が地面を打つリズムも、声量も、笑い方の角度も、長い年月を経てきた人間の動きをしていた。
稽古で磨く前に、すでに何かが完成しかけている。そういう人間がいる。
前世でも今世でも、そういう人間を見つけた時だけ、俺は迷わず声をかけてきた。
声をかけた。
「海賊だったの?」
ローレンツが俺を見た。
「はっ! 子どもが海賊なんか知ってどうする!」
「劇に使えるかと思って」
「劇? なんだそりゃ」
「物語を人間が演じて、観客に見せるやつ。やってみない?」
ローレンツが大笑いした。「面白いこと言うな!」と言った。笑いながら義足を見た。それから立ち上がった。
立ち上がり方が、義足の人間の立ち方ではなかった。長年使い込んだ道具のように、義足が体の一部になっていた。
「やってみるか。ただし酒は飲む」
「飲んでいい。稽古中以外は」
「稽古中は?」
「稽古中はだめ」
ローレンツがまた笑った。
「厳しい監督だな!」と言った。
ハインリヒが「どこが厳しいんだ」という顔をした。
―――
稽古を始めた初日。
ローレンツは確かに酔っていた。台本を渡しても斜めに持った。最初の台詞を言う前に「まず歌ってもいいか」と言い出した。
「歌える?」
「船乗りは全員歌える。歌わないと仕事にならない」
ローレンツが歌った。
音程が正確だった。声量がある。リズム感がいい。酔っているのに、というより酔っているからか、声に力みがなかった。
(使える)
「それ、今の演目に入れよう。歌いながら演じる形にする」
「ミュージカルってやつか」
「それを知ってるの?」
「知らんが、歌いながら話す劇だろ。海賊の宴会でよくやった。そういうものじゃないのか」
俺は少し考えた。
(この大陸の文化が、既にミュージカルに近い形を持っている)
演劇の発達の仕方が、向こうの大陸と違う。歌と物語が最初から分離していない。それが新大陸の文化の形だった。
ジャハルが台本を読んでいた。新大陸向けに書いた演目で、ジャハルが主役の一人だった。
だが最初の配役表を出した時、新大陸の興行師が来て「この役は黒い肌の者にやらせるのか」と言った。
俺はその言葉を聞いた。
「なんで問題があるの」
「この大陸では……肌の色によって、演じられる役が違う。慣習として」
「慣習は台本じゃないから、俺は従わない」
興行師が「しかし」と言った。俺は続けた。
「役に合った人間を使う。それだけが俺の基準だ。肌の色は関係ない」
ジャハルが台本から目を上げて、俺を見た。
何も言わなかった。でも何かが目にあった。
(こいつは、前世の俺が言い続けてきたことを、ここで聞いた)
俺は前世で何十回も同じことを言ってきた。
「役に合った人間を使いたい」という当然の主張が、なぜか通らなかった。
この世界では、通る。それだけのことだ。
「主演はジャハルで変えない。以上」
興行師が引き下がった。
(この世界では、それができる)
前世では何十年も交渉して、妥協して、「予算の関係で」「スポンサーの意向で」と言い続けた。
この世界では違う。俺が言えばそれになる。役に合った人間が立つ。それだけが変わらない基準だ。
この基準を誰にも曲げさせなかった時だけ、舞台は本物になってきた。
ジャハルがまた台本に目を戻した。
―――
初公演は港の広場でやった。
ローレンツが歌いながら登場した。
義足が板の上を叩く音が、打楽器のリズムになった。狙ったわけではなかったが、新大陸の観客がそのリズムに体を動かした。文化が合った。
ジャハルが台詞を言い、ローレンツが歌い、メルセアが合唱した。
三つが重なる場面で、観客から声が上がった。「もっとやれ」という意味の声だと後でわかった。
終演後、ローレンツが俺に言った。
「酒も好きだがな」
「うん」
「演技は……もっと好きになりそうだ」
ローレンツが義足を地面に打ちつけながら歩いていった。その背中が、舞台の上の背中と少し重なった。
新大陸の夜が来た。向こうの大陸とは星の並びが違う。ハインリヒがその星を見上げながら帳面を開いた。数字を書き込んだ。
「……坊主。来た甲斐があったな」
「うん」
「認めたくないが、認める」
俺はパンの最後の一欠けをかじった。固い。相変わらず固い。
遠くへ来ても、パンの固さは変わらない。それがなぜか、ちょっとだけ面白かった。




