表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生監督の異世界興行録 ~奴隷市場で拾った役者たちを舞台に上げたら、王国中が客席になった~  作者:


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/35

第18話:夢灯、港へ

 港町は塩の匂いがした。


 俺はその匂いを嗅ぎながら、馬車の窓から海を見た。


 前世でも海は好きだった。撮影で海に行くたびに、波の音を聞きながら台本を書いた。


 波が一定のリズムで打ち寄せる感覚が、台本の文章のリズムに乗ることがある。


 ハインリヒが「なぜ港を選んだ」と聞いた。


「海の向こうに、まだ劇を知らない人間がいるから」

「……次は海を渡る気か」

「そのうちね」

「胃が、また」

「大丈夫だよ」


 大丈夫ではないかもしれないが、今日の話ではない。今日は港町での公演だ。


 セイレーンオペラ『夢灯』の、初めての本格公演。


 稽古から本番まで積み上げてきたものを、今日初めて外に出す。


 俺はパンをかじった。


―――


 港の広場は広かった。


 移動舞台を展開して、テントを張った。


 ベルントが「この広場の音の抜け方は……」と(つぶや)きながら配置を修正した。


 ルーチェが照明の位置を決めた。今日の照明は特別だった。オペラに合わせて、光の色を変える演出を入れた。


 ルーチェが「爆発しない自信はある」と言ったので「爆発しても演出にする」と答えた。「それを言わないでください」と言われた。


 開演前に、メルセアが舞台の袖で立っていた。


 海を向いていた。


「緊張してる?」


 俺が声をかけた。


「……してる。でも、怖いのはそこじゃない」

「どこが怖い」

「観客が眠ってしまうかもしれない、というのが怖い。今までの稽古では大丈夫だったけど、本番で……大勢の前で歌ったことがなかったから」


 俺は海を見た。波が来て、また来た。


「怖れたっていい」


 メルセアが俺を見た。


「その揺れが声に乗ると届く。完璧に制御された声より、少し揺れている声の方が、遠くまで行く。港には波が必要だろ」


 メルセアがしばらく俺を見ていた。


「……それ、どこかで聞いたような言葉ですね」

「前世の師匠が言ってた」

「どんな人だったの」

「厳しい人だったよ。でも舞台の話をする時だけ優しくなった。そういう人だった」


 メルセアが海に顔を戻した。波の音が続いた。


「……歌ってみます。揺れたまま」

「それでいい」


―――


 幕が上がった。


 ルーチェの照明が舞台を満たした。青と白の光が混じって、舞台が海の底のように見えた。爆発しなかった。


 メルセアが歌い始めた。


 港の広場が、静かになった。


 漁師が足を止めた。商人が立ち止まった。子どもが親の手を握ったまま固まった。一(そう)の船が岸に着いたところで、乗組員が降りながら歌声に気づいて降りるのをやめた。


 眠る者はいなかった。


 俺は舞台の袖で聞いていた。


 稽古で何十回も聞いた声なのに、今日は違って聞こえた。


 メルセアが言った通り、少し揺れていた。その揺れが、声を遠くへ運んでいた。


 母が第二幕に入った。夢と現実の間を行き来する女の役。目を閉じて、また開く。その繰り返しの中で、女は少しずつ変わっていく。


 変わることを恐れながら、変わることでしか前に進めないことを知っている。


 第三幕の終わりに、メルセアが最後の一節を歌った。


 観客が動かなかった。


 全員が聞いていた。老いた漁師が目を閉じていた。船上から降りなかった乗組員が船の縁に腰を下ろして聞いていた。


 静寂の中で、誰かが泣いていた。声を出さない泣き方だった。それが伝わった。また誰かが泣いた。波だった。泣く波が広がった。


 幕が下りた。


 俺は袖で一度だけ目を閉じた。

 

 前世でも、いくつかの公演の後にこうなった。


 拍手が来る前の、あの沈黙。観客が今見たものをまだ体の中に置いている時間。その時間の長さが、その作品の強さを測る。


 今日は長かった。港の波よりも長く続いた。それが今日の公演の答えだった。


 メルセアの声は、ここに来てようやく本当のものになった。稽古場ではなく、本番の海の空気の中で。


 それが一番正しい形だと、俺は思っている。舞台は本番でしか完成しない。稽古は、完成するための準備だ。


―――


 お捻りの後、ハインリヒが帳面を持ちながら港の端に立っていた。


 遠くを見ていた。海を見ていた。帳面を開いていない。


 俺が近づくと、ハインリヒが言った。


「……あの声は、ずるい」

「そう?」

「堪えようとしても、どこかが崩れる」

「それがメルセアの歌だよ」


 ハインリヒが帳面を開いた。収益を書き込んだ。数字を書きながら言った。


「海の向こうに行くつもりなんだろ」

「うん」

「……いつ頃だ」

「次の演目が仕上がったら」


 ハインリヒが数字を書き終えて帳面を閉じた。


「事前に教えてくれ。胃の準備をしたい」

「する準備があるなら大丈夫だよ」

「そういう意味じゃない」


 メルセアが舞台の片づけを手伝っていた。他のセイレーンたちと何かを話していた。笑い声が聞こえた。


 その笑い声が、港の塩の匂いと混じった。


 俺は海を見た。向こう側がある。向こう側に行ける船がある。そこに劇を待っている人間がいる。


 いるかどうかはわからないが、いないと証明された場所はない。


 行ってみるまでわからない。


 そういう話は、監督の一番好きな話の形だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ