第18話:夢灯、港へ
港町は塩の匂いがした。
俺はその匂いを嗅ぎながら、馬車の窓から海を見た。
前世でも海は好きだった。撮影で海に行くたびに、波の音を聞きながら台本を書いた。
波が一定のリズムで打ち寄せる感覚が、台本の文章のリズムに乗ることがある。
ハインリヒが「なぜ港を選んだ」と聞いた。
「海の向こうに、まだ劇を知らない人間がいるから」
「……次は海を渡る気か」
「そのうちね」
「胃が、また」
「大丈夫だよ」
大丈夫ではないかもしれないが、今日の話ではない。今日は港町での公演だ。
セイレーンオペラ『夢灯』の、初めての本格公演。
稽古から本番まで積み上げてきたものを、今日初めて外に出す。
俺はパンをかじった。
―――
港の広場は広かった。
移動舞台を展開して、テントを張った。
ベルントが「この広場の音の抜け方は……」と呟きながら配置を修正した。
ルーチェが照明の位置を決めた。今日の照明は特別だった。オペラに合わせて、光の色を変える演出を入れた。
ルーチェが「爆発しない自信はある」と言ったので「爆発しても演出にする」と答えた。「それを言わないでください」と言われた。
開演前に、メルセアが舞台の袖で立っていた。
海を向いていた。
「緊張してる?」
俺が声をかけた。
「……してる。でも、怖いのはそこじゃない」
「どこが怖い」
「観客が眠ってしまうかもしれない、というのが怖い。今までの稽古では大丈夫だったけど、本番で……大勢の前で歌ったことがなかったから」
俺は海を見た。波が来て、また来た。
「怖れたっていい」
メルセアが俺を見た。
「その揺れが声に乗ると届く。完璧に制御された声より、少し揺れている声の方が、遠くまで行く。港には波が必要だろ」
メルセアがしばらく俺を見ていた。
「……それ、どこかで聞いたような言葉ですね」
「前世の師匠が言ってた」
「どんな人だったの」
「厳しい人だったよ。でも舞台の話をする時だけ優しくなった。そういう人だった」
メルセアが海に顔を戻した。波の音が続いた。
「……歌ってみます。揺れたまま」
「それでいい」
―――
幕が上がった。
ルーチェの照明が舞台を満たした。青と白の光が混じって、舞台が海の底のように見えた。爆発しなかった。
メルセアが歌い始めた。
港の広場が、静かになった。
漁師が足を止めた。商人が立ち止まった。子どもが親の手を握ったまま固まった。一艘の船が岸に着いたところで、乗組員が降りながら歌声に気づいて降りるのをやめた。
眠る者はいなかった。
俺は舞台の袖で聞いていた。
稽古で何十回も聞いた声なのに、今日は違って聞こえた。
メルセアが言った通り、少し揺れていた。その揺れが、声を遠くへ運んでいた。
母が第二幕に入った。夢と現実の間を行き来する女の役。目を閉じて、また開く。その繰り返しの中で、女は少しずつ変わっていく。
変わることを恐れながら、変わることでしか前に進めないことを知っている。
第三幕の終わりに、メルセアが最後の一節を歌った。
観客が動かなかった。
全員が聞いていた。老いた漁師が目を閉じていた。船上から降りなかった乗組員が船の縁に腰を下ろして聞いていた。
静寂の中で、誰かが泣いていた。声を出さない泣き方だった。それが伝わった。また誰かが泣いた。波だった。泣く波が広がった。
幕が下りた。
俺は袖で一度だけ目を閉じた。
前世でも、いくつかの公演の後にこうなった。
拍手が来る前の、あの沈黙。観客が今見たものをまだ体の中に置いている時間。その時間の長さが、その作品の強さを測る。
今日は長かった。港の波よりも長く続いた。それが今日の公演の答えだった。
メルセアの声は、ここに来てようやく本当のものになった。稽古場ではなく、本番の海の空気の中で。
それが一番正しい形だと、俺は思っている。舞台は本番でしか完成しない。稽古は、完成するための準備だ。
―――
お捻りの後、ハインリヒが帳面を持ちながら港の端に立っていた。
遠くを見ていた。海を見ていた。帳面を開いていない。
俺が近づくと、ハインリヒが言った。
「……あの声は、ずるい」
「そう?」
「堪えようとしても、どこかが崩れる」
「それがメルセアの歌だよ」
ハインリヒが帳面を開いた。収益を書き込んだ。数字を書きながら言った。
「海の向こうに行くつもりなんだろ」
「うん」
「……いつ頃だ」
「次の演目が仕上がったら」
ハインリヒが数字を書き終えて帳面を閉じた。
「事前に教えてくれ。胃の準備をしたい」
「する準備があるなら大丈夫だよ」
「そういう意味じゃない」
メルセアが舞台の片づけを手伝っていた。他のセイレーンたちと何かを話していた。笑い声が聞こえた。
その笑い声が、港の塩の匂いと混じった。
俺は海を見た。向こう側がある。向こう側に行ける船がある。そこに劇を待っている人間がいる。
いるかどうかはわからないが、いないと証明された場所はない。
行ってみるまでわからない。
そういう話は、監督の一番好きな話の形だ。




