第16話:商人の値段
帳簿の整理は、ハインリヒの仕事だ。
だが劇団が大きくなるにつれて帳簿の数も増えた。
古い分は倉庫に積み上げられていて、俺たちが移動するたびに一緒についてくる。
帳面と商人は、どこへ行っても離れない。
その日はハインリヒが外出していた。
稽古場を整理していた俺が、誤って古い帳面の束を崩してしまった。
散らばったのを拾い集めながら、一冊を手に取った。
表紙に年号が書いてある。今から二十年以上前の記録だった。
ページを開いた。「品名」「出身地」「年齢」「買取価格」という欄が並んでいる。
奴隷商だった頃の記録だ。捨てずに持ち続けているのは、ハインリヒなりの誠実さだと思う。
何ページかめくって、手が止まった。
名前の欄に、読み慣れた文字があった。
「ハインリヒ」
出身地。年齢。十八歳。買取価格の欄に、二十年かけて積み上げられた金額が記録されていた。
支払い記録が何年もの間、一行ずつ続いている。
最後の行に「自己買取完了」と書いてある。
俺はその帳面を持ったまま、しばらく動かなかった。
(この男が、最初に自己買取をやった人間だったのか)
劇団を立ち上げた最初の日、「自己買取をする仕組みがある」と俺が言った時、ハインリヒは「法律上はある。やった奴は聞いたことがない」と言った。
やった奴は聞いたことがない、と。
自分のことを言っていなかった。そういう言い方をした。
二十年前の自分を「聞いたことがない」と呼ぶような距離感で。
それがこの男の性質なのかもしれない。
自分のことを自分の話として語らない。記録は帳面に書く。
話は必要がなければしない。それがこの男の誠実さだ。
―――
ハインリヒが戻ってきた夕方、俺は倉庫の前で待っていた。
「帳面を整理してたら、これが出てきた」
古い一冊を差し出した。ハインリヒが受け取った。表紙を見た。顔色が変わった。それからページを開いた。自分の名前のある行を見た。
しばらく黙っていた。
「……捨てなかったんだ」
「捨てる理由がない。記録は記録だ」
「自分が商品だった記録を、なぜ持ち続けてる」
「忘れないためだよ」
ハインリヒが帳面を閉じた。倉庫の壁に背をつけて腰を下ろした。俺も隣に腰を下ろした。パンをかじった。
「話してくれる?」
「……話す義務はないが」
「うん。でも聞きたい」
ハインリヒがしばらく黙っていた。外の音だけがあった。
「十八の時、両親が借金を返せなくて売られた。珍しい話じゃない。その頃はよくあった」
「二十年かかったんだ」
「買い取り代金が高かった。体が丈夫だったから、値段をつけられた。丈夫であることが、この場合は不利に働く」
俺は何も言わなかった。
「主人の元で商いを学んだ。
数字を扱う才能があると言われた。
才能があると価値が上がる。
価値が上がると代金が増える。
それでも、自分で稼いだ分を少しずつ積み立てた。
年に一度、主人が帳面に一行書いてくれた。
自分で自分を少しずつ買い戻す記録が、年に一行ずつ増えていった」
「二十年で一行ずつ」
「二十行だ。足りた時、主人が『よくやった』と言った。それだけだった。それだけで十分だった。次の日から俺は自由だった」
ハインリヒが顔を上げた。空を見た。
「その後、商人になった。奴隷を売る側になった。お前には、そこを責める権利がある」
「責めないよ」
「なぜ」
「生き延びた。そしてここにいる。それだけのことだから」
ハインリヒがまた黙った。
「……お前の自己買取システムに俺が乗ったのは」
「うん」
「自分がかつてやった唯一の成功例だったから、だ。できると知っていた。誰もやったことがないと言われていたが、俺はやった。だから、できると断言できた」
俺はパンをかじった。
「だから、帳面の扱いが上手いんだね」
ハインリヒが静かになった。長い静かさだった。
「……坊主」
「なに」
「お前にだけは、そういう言い方されると腹が立つ」
「なんで」
「軽すぎる。俺の二十年を、一文にまとめるな」
俺は少し考えた。
「じゃあ、もっと長く言うよ。ハインリヒは二十年かけて自分を買い取って、次の二十年は他人が自分を買えるように仕組みを作って、今は劇団の帳面に全員の名前を書いている。そういう人だ」
ハインリヒが俺を見た。
何も言わなかった。
しばらく後に「行くぞ」と立ち上がった。帳面を持ち直した。古い一冊も一緒に抱えた。
俺も立ち上がった。
「一つだけ聞いていい?」
「なんだ」
「自己買取が完了した日の夜、何をした?」
ハインリヒが少し間を置いた。
「……酒を飲んだ。一人で。旨くはなかった。嬉しいのか悲しいのかわからなかったから」
「それだけ?」
「翌日から商いを始めた。やることがあると落ち着くから」
(この男は、ずっとそうやって生きてきた)
俺は何も言わなかった。
言わなくてよかった。その生き方はこの男のもので、俺が言葉にするものじゃない。
―――
その夜、ハインリヒが眠った後。
空のどこかで声が聞こえた。
「舞台で国を動かすとか前代未聞だろ。そのうえ今度は商人の二十年分の記録が出てきたぞ」
「前例がないものは監査できません。報告書が増えて困っています」
「がんばれ」
「……はい」
誰も聞いていなかった。
ただハインリヒだけが、眠りかけた意識の端で「なんか聞こえた気がした」と思って、すぐ眠った。
翌朝、ハインリヒが起き抜けに帳面を開いた。全員の名前が書いてあるページを確認した。それからページを一枚加えた。
一番上に「ハインリヒ」と書いた。
その横に、今日の日付を書いた。これが何の記録かは、書かなかった。
ただ書いた。
それがこの男の、誰にも言わない誠実さの形だった。




