第15話:母の記憶
オペラ『夢灯』の稽古は、順調だった。
メルセアの声が安定してきた。刃を丸める歌い方が体に入り始め、稽古場の誰も眠らなくなった。
眠らなくなったのに、むしろ聴き入るようになった。
音圧を落としても、声の芯が太くなったからだと思う。
うまくなっている人間の声はそういう変化をする。
母は第二幕の主役を演じる。夢から帰るたびに少しずつ変わっていく女の役だ。
その日の稽古は第一幕の終わりまでを通す予定だった。
メルセアが入口の歌を歌った。母が舞台の中央に立った。
そこまでは、いつもの稽古だった。
メルセアの声が第二節に入った。
母の体が、止まった。
止まり方が、稽古の止まり方ではなかった。台詞を忘れた止まり方でも、集中を切らした止まり方でもなかった。
母が、小さな声で何かを言った。聞こえなかった。
次の瞬間、母が膝をついた。声もなく。音もなく。
(……母さん)
俺は舞台に走った。
―――
稽古場の外に連れ出した。
母は泣いていた。静かに泣いていた。
大きな声を出すのではなく、泣き方を忘れた人間が長い時間をかけて少しずつ泣くような。そういう泣き方だった。
俺は隣に座った。何も言わなかった。
周りが気を利かせて離れた。
ハインリヒが稽古を止めて全員を外に出した。
メルセアが自分のせいだという顔で立っていたが、俺は「違う」という意味で首を振った。
しばらくして、母が声を出した。
「……セイレーンの歌が。あなたが聴かせてくれた最初の一節が。あの時の声に、似ていたから」
「あの時」
「あなたのお父さんが……好きな唄を歌っていた時の声に」
俺は何も言えなかった。
母が続けた。
「戦場に行く前の夜に、歌ってくれたの。俺は帰る、とその唄の中で言っていた。でも帰らなかった。知らせだけが来た。知らせは声じゃなかった。紙だった。声は最後まで届かなかった」
母が顔を上げた。俺を見た。
「あなたが生まれた時。奴隷市で泣いていた時。あなたの声が……澄んでいて。あの人の声に少しだけ似ていて。それで、もう少しだけ生きようと思った」
俺はそれを聞いていた。
前世で四十二年。監督として台本を読み続けてきた。何百人の役者の告白を聞いてきた。舞台上の涙も、稽古場の泣き声も。
全部、素材として見ていた。見るという仕事だったから。
今は。
見られなかった。
(この人が待っていたのは、舞台の中の夫じゃない)
初公演の日。「夫を待ち焦がれる女」と母の姿が観客の中で重なったあの日。
俺が「うまい」と思ったあの瞬間。
母は演じていなかった。追体験していた。本物の記憶が滲んでいた。
俺はずっとそれを知らなかった。
監督の仕事は役者を見ることだ。
だが見えているのは「舞台に役として立つ姿」だけで、その人が何を抱えてそこに立っているのかは、見えていない。
見えているつもりだった。才能がある。存在感がある。技術ではなく何かが滲む役者だ。そう思っていた。
滲んでいるものが何かは、聞かないとわからない。聞かなかった。聞く時じゃないと思い続けていた。
知っていても変えられなかったかもしれない。だが知らなかったことは、俺の不覚だった。
目が滲んだ。
子どもの体は涙腺が緩い。そのせいもある。だが今日は違う理由だった。
俺は拭った。すぐに拭った。
「……一つ、聞いていい?」
母が頷いた。
「最初の役。夫を待つ女の話。もう一回、やってくれる?」
母が俺を見た。
「今度は……俺がちゃんと書くから。お父さんの話を聞いてから書くから」
母がしばらく黙っていた。
それから、静かに頷いた。「あなたが書くなら」と言った。声が少しだけ笑っていた。
―――
稽古場に戻った時、全員が知らない顔をして作業をしていた。
ハインリヒが帳面を見ていた。
ジャハルが台本を読んでいた。
グスタフが道具の点検をしていた。
ルーチェが照明の向きを直していた。
ベルントが図面を引いていた。
メルセアが喉の調子を整えていた。
誰も何も聞かなかった。
俺は稽古の続きを告げた。「第一幕の終わりまで通す」と。
母が舞台に戻った。
メルセアが歌った。今度は別の出し方を選んでいた。同じ節だが、刃の角の丸め方が違った。観客が眠るのではなく、少しだけ遠くを見たくなる声の形になっていた。
(この子も、さっきのことをわかった上で変えた)
俺は舞台を見た。
母が夢の入口に立つ場面。目を閉じて、遠くを見て、それから正面を向く。その動作を、母はゆっくりとやった。
今日の母の顔は、今まで見た母の顔の中で一番よかった。
技術が変わったわけではない。ただ、話したから。話した分だけ、何かが整理された。整理された分だけ、体が舞台に向いた。
役者はそういう生き物だ。舞台が、人生を引き受けて立つ場所になる。
俺は次の台本の一行目を決めた。
「ある夜、女は夢の中でだけ夫の声を聞いた。そして目覚めるたびに、少しだけ夫を忘れていった」。
悲劇ではない。それが正しい形だ。
忘れることが悲しみの終わりではなく、前に向かう力になる話にする。
母が「夫を待つ女」を演じるのではなく、「自分で選んで歩く女」を演じる話にする。そう決めた。
それでようやく、俺の頭が落ち着いた。
稽古が終わった後、パンが一切れだけ残っていた。俺と母で半分ずつ食べた。
固い。毎度のことだが固い。
母が「本当に固いわね」と言った。俺が「そうだね」と言った。
それだけだった。それだけで十分だった。




