第10話:奴隷から王妃へ
アネリーゼが変わったのは、三日目の稽古だった。
最初の台詞。声が、変わった。
細かった声が、芯を持った。
台本を目で追っていた視線が、相手役を見るようになった。
足の位置が変わった。重心が変わった。
それまでは「台詞を言う場所」だった舞台が、突然「立っていい場所」になった瞬間というのが、役者にはある。
アネリーゼのその瞬間を、俺は見逃さなかった。
(来た)
全員の稽古の手が止まった。
意識していないままに止まった。
アネリーゼの台詞が広がるのを聞いていた。
「この不条理を、わたくしは許さない」
静かな台詞だった。叫んでいない。
だが怒りがあった。決意があった。弱さを全部引き受けて、それでも前を向く声の形だった。
ルーチェが照明を当てた。爆発しなかった。綺麗に、アネリーゼの右半身だけを照らした。
俺は何も言わなかった。拍手もしなかった。ただ、確認した。
(これが、この人の舞台だ)
―――
公演は街の広場でやった。
貴族の屋敷が並ぶ通りに近い広場を選んだのはハインリヒの提案だった。
「客層が違う。金を持っている層に見せろ」という商人の判断だった。
俺は異論なかった。金になる提案には乗る。
テントを張って、舞台を組んだ。
ベルントが段差を丁寧に調整した。
ルーチェが照明の位置を確かめた。
グスタフとジャハルが衣装を確認した。
母が最後にアネリーゼの衣装の後ろを整えた。
「緊張してる?」
母がアネリーゼに聞いた。
「……してます。でも……あ、でも……」
アネリーゼが少し考えた。
「してますけど、逃げたいとは思っていないです」
母が微笑んだ。「それで十分よ」と言った。
その二言が、稽古場で何千回も言われるどんな台詞よりも、アネリーゼを静かにさせた。
公演が始まった。
最初の五分で、客が止まった。最初の十分で、輪ができた。王女が走る場面で、子どもが前に出た。
王女が正義を宣言する場面で、誰かが「そうだ」と言った。それが飛び出した本人も驚いた顔をしていた。
最後の場面。王女が一人で立つ。
アネリーゼが、一度だけ空を見た。それから正面を向いた。何も言わなかった。ただ、立った。それだけで幕が下りた。
お捻りの量が、これまでの公演で最高を更新した。ハインリヒが数えながら目を見開いた。
「……金貨が八十枚ある」
「うん」
「今まで一度の公演でこんな数字は出たことがない」
「アネリーゼの舞台だから」
ハインリヒが帳面に数字を書き込みながら、何か言いたそうな顔をした。言わなかった。
でも俺にはわかった。この男は今、何かを改めて理解し直している。
―――
公演の翌日、ハインリヒが青ざめた顔で来た。
「王子が来る」
「ルートヴィヒ王子が?」
「昨日の公演を観ていたらしい。直接会いたいと申し込んできた」
俺はパンをかじった。「へえ」と思った。
ベルントが設計図を睨んでいた。
ルーチェが照明の調整をしていた。
アネリーゼはその日の稽古に来ていた。
「アネリーゼ」
「はい」
「王子が会いに来るって」
アネリーゼが手にした台本を取り落とした。
―――
若き王子ルートヴィヒが劇団の仮設小屋に来たのは昼過ぎだった。
護衛を二人だけ連れた、身軽な来訪だった。
革命後の王家は身軽でなければならないと思っているか、それとも単に性格がそういう人間なのかのどちらかだ。
顔を見た瞬間に後者だとわかった。
年は十八か十九。緊張した顔をしていた。むしろこちらが緊張させているらしかった。
「昨日の公演を……観ました」
王子がアネリーゼに向かって言った。アネリーゼがまっすぐ返した。
「ありがとうございます」
「その……演じていた役だけでなく、あなた自身の……生き方と言いますか。あのような境遇にありながら、舞台で正義を語ることを選んだという……」
王子が言葉を選びすぎていた。
俺はパンをかじりながら見守った。
ハインリヒが俺の横で「これは……」という顔をしていた。
「あなたの生き方と、演じる世界に……惹かれました」
一文になった。直球だった。若い割に、迷った末に直球を選ぶ人間らしかった。
アネリーゼがしばらく黙っていた。
それから、「少しだけお時間をいただけますか」と王子に言って、俺の横に来た。声を低くして言った。
「……監督。どうしましょう」
「どうしたいの」
「わたしは舞台が……」
「うん」
「でも……」
「うん」
アネリーゼがまた黙った。俺も黙っていた。
「演技なら、どこでだってできるよ」
俺は言った。
「君はもう立派な役者だ。舞台でなくても、君が立つ場所がそのまま舞台になる。どこで何をしていても、それは変わらない」
アネリーゼが俺を見た。長い間、見た。
「……それは励ましですか」
「事実だよ。監督として言ってる」
アネリーゼが一度だけ目を閉じた。また開いた。
それから王子の方に向かった。
―――
結婚式は国中の祝福の中で行われた。
「没落令嬢が奴隷になり女優を経て王妃になった」という話は、国境を越えて広まった。
誰もがシンデレラストーリーと呼んだ。
美しい話だと言った。
劇団の名が各地に知れ渡った。
ハインリヒが収益報告を持って来た時、帳面の数字が今まで見た中で一番多かった。
式の後、俺のもとに王家から使いが来た。
「劇団への功績として、監督殿に伯爵位を授与したいと王家より申し上がってございます」
俺はパンをかじりながら聞いた。
「断ります」
使いがぽかんとした。
「俺は"監督"でいたいから」
「し、しかし……」
「伯爵になったら劇が作れなくなる。それだけのことだよ」
使いが帰った後、母が横に来た。
「断ったのね」
「うん」
母がくすりと笑った。「そうだと思っていたけれど」と言った。
「名役者には値段がつけられないものだから、ですって」
それは俺の言葉だった、らしい。
いつ言ったのかは覚えていない。でも正しいとは思った。
俺がつけているのは金貨の値段ではなく、役者としての値段だ。
その値段は、役によって変わる。役が続く限り、変わり続ける。
母の横顔を見た。
(いつかこの人の話を、俺はちゃんと聞かないといけない)
今日はまだその日ではない。でもいつかは来る。来る前に、台本を準備しておかなければならない。
焚火の火が落ち着いた夜に、俺は新しいページを開いた。まだ何も書いていない白いページに、最初の一文を書いた。「夫を待つ女の話」と。
それだけ書いて、閉じた。




