第三章「森で追いかけてきた子の目的が怖い」
トルバスを出て、東へ向かう街道を歩き始めて半日。
道はすぐに舗装された石畳から土の獣道へと変わり、両脇に木々が増え始めた。アルタの森の入口はまだ先だが、すでに空気が変わっていた。湿った土の匂い。鳥の声。日差しが木の葉に遮られて、まだら模様の影を地面に落としている。
ユーダは黙々と歩いた。
グリムは相変わらず宙に浮きながら、特に何も言わなかった。
静かだった。
静かすぎて——
「待ってください!」
後ろから声が来た。
振り返ると、森の入口手前の道を、小さな人影が全力で走ってきていた。
近づくにつれて、輪郭がはっきりしてくる。
年齢は十五か十六ほど。茶色のくせっ毛が走るたびに跳ねている。大きな眼鏡。肩には、自分の体格に不釣り合いなほど巨大な荷物。両手には分厚い本を抱えている。
どう見ても、旅慣れていない。
少女はユーダの手前で足を止め、膝に手をついて盛大に息を整えた。
「……はあ、はあ……待って、くれて……ありがとう、ございます」
「待ってないけど」
「……え?」
「声が聞こえて振り返っただけで、待ったわけじゃ」
「……そう、ですか」とぼそりと言って、少女は立ち直した。眼鏡を押し上げ、ユーダの右頬を真っ直ぐに見た。
正確には、右頬の金属の突起を。
「やっぱり! トルバスで見かけた聖剣の人だ!」
「……聖剣の人」
「すみません、昨日の夜、街でお見かけして。右頬の金属がどうしても気になって、今朝ずっと後を追いかけてたんですが、足が速くて」
「ストーキングじゃん」
「研究です!」
少女は胸を張った。
「私、ミルフィといいます。王立魔法学院に在籍してます。専攻は古代魔法理論で、特に聖剣顕現現象を研究していて——」
「息継ぎして」
「——ずっとフィールドワークの機会を探してたんですが、まさか本物に出会えるとは思わなくて!」
ミルフィの目が、ランプのように輝いていた。ユーダの顔ではなく、あくまで右頬の金属を見ている目だった。
「……俺じゃなくて剣に用があるんだね」
「はい!」
即答だった。清々しいほどの即答だった。
「……正直なのは嫌いじゃないけど、傷つくからせめて一秒間を置いてほしい」
「あ、すみません。でも本当に、この金属の成分が気になって。少し触らせてもらえませんか?」
「ダメ」
「じゃあ計測だけ」
「何を計測するの」
「聖なる波動の強さとか、金属の硬度とか——」
「硬度!? どうやって測るの!」
「これで」
ミルフィが荷物から取り出したのは、先端が尖った金属の棒だった。
「叩いて音で測ります」
「俺の頬を叩く気!?」
「軽くです」
「軽くでもダメ!!」
グリムが上から冷静に言った。
「追い払え。厄介なのを拾うな」
「拾おうとしてないし!」
しかしミルフィは諦めなかった。
ユーダが歩き出すと、後ろからついてくる。
無視すると、「あの、聖剣の構造的にですね」と話しかけてくる。
少し速く歩くと、小走りでついてくる。荷物が大きすぎてすぐに息が切れる。それでもついてくる。
「……なんでそんなについてくるの」
「研究対象が目の前にいるので」
「俺は研究対象じゃない、人間だ」
「人間なのは分かってます。でも右頬の聖剣は研究対象です」
「俺から切り離して考えないでくれる?」
「切り離しては考えてませんよ。ユーダさんごと研究します」
「俺の名前知ってるじゃん!」
「昨日、バルト副団長に御使いのお名前を聞きました」
「バルトが教えたの!?」
グリムがくつくつと笑った。ユーダは「笑うな」と睨んだ。
昼過ぎ、三人と一精霊は休憩のため、道沿いの大きな木の根元に腰を下ろした。
ミルフィは荷物から水筒と携帯食を取り出し、それから当然のように分厚い本を開いた。
「……なんの本?」
ユーダが聞くと、ミルフィは表紙を見せた。
『聖剣顕現論・第三版 改訂増補』
「全部読んだの?」
「三回読みました。でも実物を見たのは初めてで」
ミルフィはユーダの右頬をじっと見た。まるで珍しい鉱石でも観察するような目だった。
「……ちなみに聞いていいですか」
「なに」
「普段、生活するときに邪魔じゃないですか」
ユーダは少し考えた。
「……邪魔」
「どういう場面で?」
「寝るとき枕に当たる。飯食うとき箸が引っかかりそうになる。あと昨日、宿屋の扉をくぐるとき無意識に横向きになった」
「横向きに!」
ミルフィが猛烈な速さでメモを取り始めた。
「なんで記録するの!」
「後世のために」
「後世に俺の不便さを伝えないで!」
「でも貴重なデータなんですよ。聖剣保持者の日常生活の記録なんて、前例がないんですから」
「前例がないのは当たり前でしょ! 事故なんだから!」
ミルフィはメモを取りながら、さらりと言った。
「ところで、魔法のサポートは必要ですか」
ユーダが「え」と言うと、ミルフィは顔を上げた。
「私、一応魔法使いなので。道中、役に立てることがあれば」
「……魔法、使えるの?」
「理論は完璧です」
「理論は?」
「……実技は、少し」
「少し?」
「……まあ、その、色々あって」
グリムが言った。
「実技が壊滅的なんだろ」
「壊滅的は言いすぎです!」
「王立魔法学院の実技試験で、試験官の眉毛を吹き飛ばしたのはどこの誰だ」
「なんで知ってるんですか!?」
「精霊は色々知ってる」
ミルフィは眼鏡の奥の目を泳がせた。それからユーダを見た。
「……眉毛はすぐ生えました」
「そこじゃなくて」
「実技は、練習中です」
「練習中って学院生がフィールドワークに出てきていいの?」
「休学届を出してきました」
「本気じゃん!」
休憩を終えて歩き始めると、道が急に暗くなった。
木々の密度が増している。アルタの森の、本格的な入口に差し掛かってきた。
グリムが言った。
「この先から魔物が出る。小物が多いが、一人だと面倒だ」
「魔物!」
ミルフィの目が輝いた。
「魔物も研究対象ですか?」とユーダが聞いた。
「魔物は専門外ですが、聖剣と魔物の相互作用は興味深くて」
「相互作用って何」
「聖剣の光が魔物を引き寄せる可能性があるんです。つまり——」
ミルフィがユーダの右頬を見た。
「ユーダさんが歩いてると、魔物が集まってくるかもしれません」
「最悪な情報をさらっと言わないで!?」
「事実をお伝えしただけです」
「グリムと同じこと言ってる! なんでこの旅の仲間みんな俺を傷つけてくるの!」
「仲間なんですか、私」
ミルフィがきょとんとした顔で言った。
ユーダはしまったという顔をした。
「……言葉の綾で」
「でも仲間って言いましたよね」
「言ってない」
「言いました。聞こえました」
「……」
グリムが「諦めろ」とつぶやいた。
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、茂みが揺れた。
ユーダが身構えると、茂みから飛び出してきたのは、犬ほどの大きさの魔物だった。灰色の毛並み、裂けた口、三対の目。低く唸りながら、ユーダたちを見ている。
グリムが静かに言った。
「フォレストハウンドだ。中級の魔物。一体なら問題ないが」
「一体なら、ね」
茂みがまた揺れた。
二体目が出てきた。
三体目も出てきた。
「……三体いるじゃん」
「聖剣の光に引き寄せられたな」
「さっき言ってたやつじゃん! もう来たじゃん!!」
ユーダは腰の短剣を抜いた。戦えないわけではない。ただ三体同時は厳しい。
「ミルフィ、逃げて」
「逃げません」
「逃げて! 危ないから!」
「大丈夫です。魔法使います」
「実技壊滅的なんでしょ!?」
「練習してきました」
ミルフィは本を抱えたまま、空いた手を前に出した。呪文を唱え始める。古代語の、長い詠唱。
フォレストハウンドが一体、ユーダに向かって跳んだ。
ユーダが短剣で弾く。衝撃で腕がしびれた。
残り二体が左右に分かれた。挟まれる。
「ミルフィ、まだ?」
「もう少しです!」
「もう少しって何秒?」
「三十秒ほど!」
「長い!! 詠唱長すぎ!!」
ユーダは左の一体を蹴り、右の一体から飛びのいた。草の上を転がって立ち上がる。
顔から剣の柄が出ているせいで、転がるたびに地面に引っかかりそうになるのが地味に最悪だった。
「グリム、少し助けて!」
「俺は解説担当だ」
「解説担当って何!? 精霊でしょ!?」
「精霊は基本、不干渉だ」
「ひどい!」
三体目がユーダの正面から突進してくる。避けきれない。
その瞬間——
「できました!」
ミルフィの手から、光が放たれた。
轟音。
光の奔流が、三体のフォレストハウンドを纏めて吹き飛ばした。
それだけではなかった。
周囲の木が三本、根元からへし折れた。
地面に直径五メートルほどのクレーターができた。
ユーダは爆風で十メートル吹き飛んで、茂みに突っ込んだ。
「……っ、ぐ」
全身が痛い。でも生きている。魔物は——吹き飛んで、逃げていった。
茂みをかき分けて顔を出すと、ミルフィが小走りで駆け寄ってきた。
「ユーダさん! 大丈夫ですか!」
「……魔物より魔法のほうが怖かったんだけど」
「ごめんなさい、少し出力が」
「少し!?」
「……かなり、ずれました」
「壊滅的じゃん! 実技壊滅的じゃん!」
「でも魔物は倒しました!」
「俺も吹き飛んだ!!」
グリムが上から降ってきて、ユーダの頭の傷を確認した。
「……大したことはない」
ユーダは立ち上がった。全身の土を払って、ミルフィを見た。
ミルフィは申し訳なさそうな顔をしていた。眼鏡が少し曲がっていた。爆風で飛んだのだろう。
「……ミルフィ」
「はい」
「旅についてくるのはいい」
「……本当ですか」
「ただし、魔法を使うときは事前に言え。逃げるから」
「それは研究者として悲しいですが……分かりました」
ミルフィはぱっと顔を輝かせた。それから手帳を開いて、またメモを取り始めた。
「聖剣保持者、爆風に耐えて無事。なお顔の突起物は損傷なし。耐久性が高い可能性——」
「俺の心配じゃなくて剣の心配してる!!」
その夜、三人と一精霊は森の入口手前で野営した。
焚き火を囲みながら、ユーダはぼんやりと炎を見ていた。
ミルフィはその間も本を読んでいた。グリムは木の枝の上で目を閉じていた。
「……ミルフィ」
「はい」
「聖剣って、抜いたらどうなるか、本に書いてある?」
ミルフィは少し考えてから、ページをめくった。
「抜いた後のことは……あまり詳しく書かれていなくて」
「そっか」
「ただ」
ミルフィがページで指を止めた。
「抜く際に、何らかの代償が生じる可能性がある、という記述が一箇所だけあります」
ユーダは顔を上げた。
「……代償?」
「はい。ただ具体的に何なのかは書かれていなくて。古い文献なので、信憑性も」
「……グリム、知ってる?」
木の上のグリムが、目を閉じたまま答えた。
「……さあな」
その言い方が、少し引っかかった。
知っていて、言わないような間だった。
「グリム」
「早く寝ろ。明日も歩くぞ」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
代償。
その言葉だけが、ユーダの胸の中に残った。




