第17話:感じない温度
玄関のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
さっきまで、そこにいたはずの温度が、もうない。
「……っ」
喉の奥が、引きつる。
違う。違うのに。
あんなこと、言うつもりじゃなかった。
ただ――
少し、気になっただけだったのに。
スマホを取り出す。
トーク画面を開いて、指が止まる。
『ごめん』
短く打ち込んで、消す。
違う。
これじゃ軽すぎる。
『さっきのは、誤解で』
また消す。
誤解って、何?
じゃあ、なんで知ってたの?
彼の言った言葉は正しい。
監視と言われて、何も言えなかった。
指が、動かない。
画面が暗くなる。
「……はぁ」
小さく息を吐いて、ソファに沈み込む。
頭の中で、さっきのやり取りが何度も繰り返される。
『なんで、それ知ってるの?』
あのときの、智也の顔。
驚きと、少しの警戒。
――知らない顔を、させてしまった。
「違うのに……」
ぽつりと零れる。
監視なんて、してない。
そんなつもりじゃない。
ただ、心配で。
ただ――
「……同じ、かも」
思考が止まる。
完全に否定できない自分がいる。
逐次報告。
今日、何してたか。
誰といたか。
何時に帰るか。
それを“自然に”受け取っていた。
それを“当たり前”だと思っていた。
「……違う」
小さく首を振る。
違う。
私は、そんなつもりじゃ――でも。
もし、逆だったら?
智也が、私の行動を全部知っていたら?
誰と話したか。
どこにいたか。
何をしていたか。
「……嫌だ」
はっきりと、そう思った。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「……最低」
誰に向けた言葉かも分からないまま、呟く。
スマホを握りしめる。
もう一度、画面を開く。
トーク画面。
文字を打つ。
『ごめん』
今度は、消さない。
でも――送れない。
送ったら、終わる気がした。
何が終わるのかも、分からないのに。
ただ、怖い。
距離を置こう。
そう言われたときの声が、耳に残っている。
優しかった。
怒ってはいなかった。
でも、確実に――遠かった。
「……やだ」
思わず、声が漏れる。
「……離れたくないのに」
こんなことで、終わりたくない。
なのに。
何をどうすればいいのか、分からない。
謝ればいいのに。
それだけなのに。
「……できない」
指が、動かない。
怖い。
拒絶されるのが。
もう一度、あの距離を見せられるのが。
スマホの画面が、また暗くなる。
部屋の中は静かで、やけに広く感じた。
さっきまで、隣にいたはずなのに。
たったそれだけの距離が、こんなにも遠い。
「……どうしよう」
答えは出ない。
分かっているのは一つだけ。
――間違えた。
それだけだった。
……そういえば、澪が言っていたことが頭をよぎる。
彼女の言う通り、大学の女を放っておいたから。
……違う。
あの女のせいじゃない。
放っておいたとか、そういう問題じゃない。
私が、勝手に不安になって。
勝手に安心したくて。
そのために、全部知ろうとしただけだ。
私は彼を縛りたくなかった。
なのに縛っていることに気付かないまま、自分で壊してしまった。
信頼という関係を……。
部屋の中は物音ひとつしない。
空気が動くこともない。
時間が動いているのかさえ、もうわからない。
途方に暮れる私の手の中でスマホが震えた。
画面には見慣れた彼からの通知。
心臓が止まった。
動けない。
指、ひとつ動かせない。
スマホの震えは私の震えに変わっていた。
手の中から落ちても、動けなかった。
通知と同時に見えてしまった、『今日はごめん』の文字。
……なんで。
なんで、そっちが謝るの?
違う。
違う。
違う。
悪いのは私。
謝らなければならないのは、私。
体が、指が、勝手に動いた。
「違う!」
『違う』
送信。
はっとして、息が止まる。
何を送ってるの、私。
追いかけるように、また打ち込む。
「ごめん!」「違うの!」「あのね!」
『ごめん』 『違うの』 『あのね』
感情も文字も、まとまらない。
伝わるはずもないのにスマホに訴え、自分でも分からないまま、 指だけが止まらない。
「監視とかじゃなくて!」
『監視とかじゃなくて』
「ただ心配で!」
『ただ心配で』
「ううっ」
『でも違くて』
……違くない。
既読がつかない。
画面が滲む。
「……う……う…………う」
『ごめん』 『ごめんね』 『ごめん』
送信、送信、送信。
止まらない。
止められない。
既読がつく前に、全部壊してしまいそうで――
それでも、指は止まらなかった。
――既読がついた。
その瞬間、指が止まった。
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