第16話:同じ温度
仕事からふらつく足取りで、何とか帰ってきた。
玄関の前、足を止める。
今の私、どんな表情をしているのか。
偶然に起きた事故だと、分かってるのに。
直接、その現場を見た訳でもないのに。
気持ちが吹っ切れない。
だけど、彼の方がひょっとしたら落ち込んでいるかもしれないと思うと、居ても立ってもいられなかった。
ロックを解除すると、強くノブを握ってドアを開く。
ドアの音に気付いたのか、彼が出迎えにくる。
「すず、おかえり」
そこにはいつもと変わらない彼の姿、変わらない表情の彼。
なんで?
「どうしたの?すず」
なんで、そんなに普通なの?
「え、ええ、ただいま」
「ご飯出来るまで、もう少しかかるから」
彼は私のカバンを持つと、行ってしまった。
どうして、平然としてるの?
食卓に、静かな時間が流れていた。
温め直した料理の湯気が、ゆらゆらと揺れている。
向かいに座る智也は、いつもと同じように箸を動かしている。
そのはずなのに――
どこか、遠い。
「……ね」
気づけば、口を開いていた。
「ん?」
顔を上げる。
その表情は、やっぱり優しいまま。
だからこそ、少しだけ安心してしまった。
「大学でさ……その、ぶつかったって聞いたけど」
一瞬、間があった。
「……え?」
箸が止まる。
「……キス、したんだって?」
なるべく軽く。
何でもないことみたいに。
ただ心配してるだけだって、伝わるように。
そう思ったのに。
「……なんで、それ知ってるの?」
空気が、変わる。
柔らかかったはずの声が、少しだけ硬くなった。
「え、いや……」
喉が詰まる。
何でもないことのはずだった。
そう思っていたのは、自分だけだったのかもしれない。
「……誰かに聞いたの?」
視線が、真っ直ぐ向けられる。
逃げ場がない。
「……部下の妹が、同じ学科で……」
言いながら、まずいと思った。
でも、もう止まらない。
「それで、たまたま……」
彼の目は変わらない、なのに見たことのない色に見えた。
「……それ、ずっと?」
「え?」
「俺のこと、そうやって聞いてたの?」
息が詰まる。
違う、と言いかけて――言葉が出てこない。
「ち、違うよ。ただ――」
ただ、何?
心配で?
様子が気になって?
言葉にしようとした瞬間、それがどう聞こえるか分かってしまった。
「……監視、してたの?」
静かな声だった。
怒ってはいない。
でも、その分だけ重い。
「してない!」
反射的に否定する。
「そんなつもりじゃなくて、私はただ――」
「ただ?」
問い返される。
言葉が、続かない。
自分の中で“普通”だと思っていたことが、急に形を失っていく。
「……ごめん」
(でも)
「……嫌だったの」
ぽつりと零れたのは、謝罪だった。
違う。
そうじゃない。
本当は――
「……」
智也は、すぐには何も言わなかった。
少しだけ視線を落として、考えるように黙り込む。
その沈黙が、やけに長く感じる。
「……いや」
やがて、短く息を吐いた。
「怒ってるわけじゃないんだ」
優しい声。
でも。
「……ちょっと、びっくりしただけで」
少しだけ、距離があった。
はっきりと分かるくらいに。
「……うん」
頷くしかできない。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
「ごめん。俺も……言わなかったし」
事故のことだと分かる。
触れないままにしようとしていた、そのこと。
「でもさ」
一拍、置いて言葉を探すように視線が揺れた。
「……少し、時間置こうか」
その言葉は、静かに落ちた。
音もなく。
でも確実に、何かを断ち切るように。
「え……」
顔を上げる。
智也は、困ったように笑っていた。
「今、ちょっと……お互い、落ち着いた方がいいと思う」
優しい。
優しいままなのに。
遠い。
「……そう、だね」
そう答えるしかなかった。
本当は、嫌なのに。
引き止めたいのに。
言葉が、出てこない。
「ごめん」
最後にそう言って、智也は立ち上がる。
その背中を、ただ見ていることしかできなかった。
ドアが閉まる。
小さな音。
……やだ。
それだけで、部屋がやけに広く感じた。
さっきまで、隣にいたのに。
……行かないで。
その言葉は、最後まで喉の奥で止まった。
代わりに残ったのは――
どうすれば、離れなくなるのか。
それだけだった。
続きが気になったらブクマお願いします。




