第8話:わからない
「それじゃあ、行ってくるわね」
「気をつけて」
玄関で繰り返される、朝の何も変わらない風景。
彼女は笑顔で手を振る。
それに応えるように笑顔で手を上げる。
単なる一時の別れに過ぎないのに…。
彼女がドアノブに手を掛けた時、俺は背後から抱き締めていた。
「ど、どうしたの?」
いつもしない行動に彼女の鼓動が早まっていた。
「……わかんない」
口ではわからないと言ったが予想は出来ていた。
俺は不安なのだ。
すずと離れることが――孤独を実感することが。
ドアノブに手を掛けたまま、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
「今日の大学…リモートにする?」
心配な声、優しく腕に触れてくる温もり。
それだけで少し前進出来る。
「ううん、すずを支えたいから」
「ありがと」
俺におまじないをかけるように彼女の匂いにつつまれた。
初めて、ひとりで登校する。バイクを駐輪場に停め、ヘルメットを脱ぐと傍にいた女の子が唖然とする。
その目は見開き、口はぽかんと開いていた。
教室に足を踏み入れると、やはり視線が痛い。
相変わらずの好奇の目、値踏みするような視線。
以前、すずと行ったカラオケの帰りに浴びた、舐め回すような視線はほとんどないが警戒するに越したことはない。
ここにすずはいないのだから…。
この世界の現実を突き付けられる空間。
ここでは唯一の男子――俺だけが浮いている。
女子たちは楽しそうに話していて、今日も俺は透明人間。
(やば!今日も来てるよ!)
(あ〜、声掛けたい!でもバックが怖いよ)
ヒソヒソと話される音が疎外感を高める。
(あぁ、今日も居場所がないな…)
気付かれないように深く息を吐き出していると机にゴトッと荷物が置かれ、その音に振り向く。
「あれ?智也、ここで一人?」
昨日、唯一話し掛けてくれた真白がふと声をかけてくる。
「え、あ、うん…まあ、そうだね」
彼女の無邪気な笑顔に、ふっと力が抜けた。
「そっか、じゃあ隣座るね」
また、教室の空気が一瞬、静まり返った。
法的に保護されている俺に誰も近付かないのに。
すずと俺の関係に近い距離。
彼女だけ距離の取り方が明らかにおかしい。
でも不快じゃない。
俺の大学生活で足りていないピース。
誰かが「普通」に話してくれること。
気遣いのない言動に息吹を感じる。
「智也は今日もパートナーに送ってもらったの?」
普通過ぎる会話――緊張で震えていた手の体温が戻る感覚。
「いや、今日は自分ひとりで来たよ」
自然な会話のキャッチボール。だけど、俺達の周り以外の温度は下がっていく。
されど、注目度は上がる。
「そうなんだ、家から大学近いの?」
男の住所を聞くタブーすら彼女には関係ない。
「今はパートナーと一緒に住んでて、実家よりは近いかな」
彼女のあまりの危うさに周囲の同期達は凍りついていた。
「教授来ちゃったわね」
講義室の異様な空気に教授の足が止まる。
そして、責めるような視線がこちらを向く。
だが何も言わず、咳払いをひとつすると講義は始まった。
講義の最中、彼女の横顔は真剣だった。
まるで人が代わったように教授の話を聞いている。
考えているのか。ペンを回す癖があった。
その姿が他の同期と変わらない。
「次の講義まで時間あるから良かったら話さない?」
「え、うん。構わないよ」
すず以外の女性と話してはいけない理由はないがどこか後ろめたい気持ちがあった。
彼女に連れられ、背中に刺さる視線を浴びながら講義室を出ていく。
俺達の後ろに座っていた小林妹がもの凄い勢いでスマホを操作していることにも気付かずに……。
昨日も座ったベンチ。
だが、今日は違いが明白だった。
隣には知り合ったばかりの真白。
身動きすれば、肩が触れそうな距離。
息づかいが伝わってきそうだ。
彼女は普通に会話していると思うと突然、プライベートな質問を聞いてきたりする。
目を見開いたまま聞かれるその声は、無邪気なのに心臓を鷲掴みにされるような感覚を与える。
距離は近いのに、緊張と安心が混ざり合う――この不思議な感覚に、俺は少しだけ心が震えた。
「そろそろ、次の講義が始まるね」
そう言って、真白が立ち上がる。
次の瞬間――
柔らかい感触が、俺の腕に触れた。
反射的に肩が跳ねる。
彼女の指が、俺の腕を掴んでいる。
纏わりつく、彼女の匂い。
「行こ?」
まるで当たり前のような声色。
けれど、その距離はあまりにも近い。
指先から伝わる体温が、じわりと意識を侵食してくる。
(ち、近い……)
鼓動が一気に速くなる。
振り払う理由はない。
ないのに、周囲の目が頭をよぎる。
ぐい、と軽く引かれる。
立ち上がらざるを得ない距離。
逃げ場のない自然さ。
その瞬間――
背後から、一斉に息を呑む音が広がった。
空気が震える。
視線が、突き刺さる。
驚き、嫉妬、戸惑い、信じられないものを見る目。
それでも、彼女は気にした様子もなく、俺の腕を掴んだまま歩き出す。
まるで、周囲の世界なんて最初から存在していないかのように。
(なんで……そんなに平気なんだよ)
胸の奥が、ざわつく。
緊張なのか、焦りなのか、それとも――
ほんの少しの高揚感なのか。
彼女の指はまだ離れない。
触れられているのは腕だけなのに、心の奥まで掴まれている気がした。
それが怖いのか、嬉しいのか――自分でも分からなかった。
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