第1話:完璧な朝
薄いカーテン越しに、朝の光がやわらかく差し込む。
高層階の窓から見える街並みは、まだどこか静かで、夜の名残を抱えたまま目を覚まし始めていた。
彼女のタワーマンションの寝室は、落ち着いた色合いのインテリアで統一されており、広いベッドも、整然と並ぶ本棚も、どこか彼女らしい凛とした空気をまとっている。
乱れたシーツ以外は…。
俺はそっと目を開ける。
隣では彼女が穏やかな寝息を立てている。
年齢を重ねた分だけ余裕をまとった横顔は、仕事のときとは違う無防備さがあって、俺は思わず小さく微笑む。
起こさないように、慎重にベッドを抜け出す。
床に足をつけると、ひんやりとした感触が広がった。
静かに寝室のドアを閉め、リビングへと向かう。
大きな窓から見える朝焼けが、タワマン特有の開放感をいっそう引き立てていた。
キッチンはアイランド型で、白い天板が朝の光を反射している。
俺は冷蔵庫を開け、昨日一緒にデパートで選んだ食材を取り出す。
卵、ベーコン、アボカド、そして彼女が好きな少し酸味のあるパン。
フライパンを温める音が、静かな部屋に小さく響く。
ベーコンの焼ける匂いが立ちのぼり、コーヒーメーカーからは豊かな香りが広がる。
手際よく卵を割り、スクランブルエッグをふんわりと仕上げた。
彼女は最近、特に忙しい。いや、俺にそんなそぶりを見せなかっただけなんだと思う。
仕事に向かう今日も、きっと慌ただしくなるだろう。
だからこそ、こういう時間くらいは、少しでもゆったりしてほしいと願う。
テーブルに朝食を並べ終えたころ、寝室のほうから足音がした。
でも、俺は洗い物を優先して、気付かないふりをしていると、優しく後ろから抱き着かれた。
「……早いのね」
まだ眠たげな声。でも、隣からいなくなったことに少し拗ねている声音。
洗い物の手を止めて、彼女の好きにさせる。
俺の温もりを満喫し、機嫌も直ったのか、背中から離れてしまう。
その温もりが名残り惜しく振り返ると、薄いガウンを羽織った彼女が立っている。
髪は少し乱れていて、それがかえって愛おしい。
優しく髪を撫でると猫のように目を窄めた。
「おはよう。朝食もうできてるよ」
俺はコーヒーカップを手に取り、彼女の前に差し出す。
すずはそれを受け取り、湯気越しに俺の指にはまる絆を見つめる。
彼女のコーヒーカップを持つ指に、 光る同じ指輪。
「こういうの、ずるいわね」
「何が?」
「完璧すぎる朝」
俺は照れたように笑う。
彼女は一口コーヒーを飲み、ふっと息をついた。
高層階の窓から広がる景色は、すっかり朝の色に変わっている。
都会の喧騒が始まる前の、ほんのひとときの静寂。
年齢差も、忙しさも、この高さまでは届かない。
ただ同じ朝を迎え、同じテーブルを囲む。
それが俺とすずが願ったこと。
「次は、私が作る番ね」
そう言って微笑む彼女に首を振る。
「また明日も、俺が先に起きるよ」
窓の外に広がる空は高く、青く、どこまでも澄んでいた。
それだけで、今日という一日は報われていた。
「ねぇ、智也…本当に大学に行くつもり?」
すずの声は柔らかく、それでいて少しだけ真剣だった。
「やっぱり駄目かな」
「智也が通いたいなら私は応援したいけど……」
彼女は視線を逸らし、お揃いの指輪を見つめる。
この世界では、男は希少で、女性たちの関心も強い。
大学という限られた空間では彼女の手は届かない。
だからすずが心配するのも無理はない。
嫉妬や独占欲、そして守りたい気持ち──俺の腕を掴むと黙ってしまった。
彼女は、何かを言いかけて、飲み込んだ。
きっと、俺を縛りたくないんだと思う。
そう思うと素直に言い出せなかった。
「わかったわ。だけど、明日は私が送るわ」
「でも、すずに迷惑かけるわけには…」
「いいの、私がそうしたいの」
彼女の表情にはもう決めたことよと書いてあった。
観念した俺は彼女にちょっとしたお礼を提案する。
「なら今日は俺が会社までエスコートするよ」
「えっ!?で、でも……」
「俺がそうしたいから、ね」
すずは少しだけ視線を揺らし、それから小さく息を吐いた。
「……会社の人に見られたら困る?」
「ううん」
指をもじもじしながら言う。
「もうバレてるから隠すつもり、ないもの」
二人の朝は、まだ始まったばかりだった。
朝の支度を終えると2人で一緒に部屋を出る。
腕を組んで、エレベーターまで歩いているが2人の手にはヘルメットが握られていた。
エレベーターで地下駐車場までおよそ一分程でつく。
扉が閉まると、あの静かな朝が遠ざかっていく。
地下駐車場には見慣れた彼女のスーパーカーや他にも名の知れた高級車が当たり前のように並んでいる。
「いつ見てもここは別世界に感じる」
地上とは全く違うひんやり冷たい空気――でも、俺の気持ちは昂ぶる。
「ふふ、ホント、智也は車が好きよね」
隣に車よりも素敵な彼女がいるのに、目移りしてしまった俺の腕が強く組まれる。
「さあ、遅れちゃうわよ。私を送ってくれるんでしょ?」
「ごめん」
俺は居た堪れなくなって、ヘルメットを被り表情を隠す。
高級車も良いがそれよりも素敵な彼女とタンデム出来る方が何倍も良い。
憧れとは違う、充実感でバイクへと向かう。
俺の背中で乗り慣れつつある彼女は元気よく、レッツゴー!と片手を上げている。
エンジンをかけると彼女に呼応したような始動音が地下に響く。
「ちゃんと掴まってろよ」
「うん」
優しく、でもしっかりと腰に抱き着く彼女にまだ完璧な朝は続いているのだと実感した。
独特のグリップ音を鳴らしながら、バイクは地下駐車場を進んでいく。
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