38話:経過
入院から三週間が経ち、俺は既に大学生になっていた。
授業はすべてリモート。
すずがあれこれ準備してくれたおかげで、画面越しに授業を受けられるけれど、そこには誰もいない。
大学側の配慮でもあるのだが味気ない。
教授の声は聞こえるのに、目の前の教室は無人で、まるで時間の外に取り残されているような気分になる。
同期の顔も見ていない。
笑い声もざわめきも、ほんの些細な物音すら届かない。
大学の空気はどんな感じなのだろうか……。
大学生になった実感は、まだどこにもない。
でも、病室で過ごす時間はまるで別世界だ。
すずといると、世界のすべてが、静かに優しく光って見える。
窓の光、ソファの柔らかさ、画面に映る自分の手の動き――それだけで、胸が満たされる。
「今、ここに生きている」って、そんな当たり前のことを、すずと一緒にいると感じられるのだ。
授業の合間にはリハビリ。
最初のリハビリは衝撃だった。
医者二名、看護師七名、リハビリトレーナー五名――そして男は俺一人。
圧倒的な男女比に、大統領でもこんな待遇は受けないだろうと、思わず目を丸くしてしまった。
「流石、男女比1:100だな」とすずに話すと、彼女は少し険しい表情で「ちょっと待っててね」と病室を出て行った。
初めて見た、すずの怒った顔――優しい笑顔とは180度違う、真剣で少し怖い顔に、背筋がちょっとだけ冷える想いだった。
でも同時に、この人に守られている、見守られているという安心感もあった。
翌日からはリハビリの体制が変わり、トレーナーと看護師が一人ずつになった。
歩くたびに廊下に響く自分の足音は、少しずつ体を取り戻している証。
その音を聞くたび、心まで軽くなる。
自分が少しずつ前に進んでいることを、体と心で実感できる。
ただ、帰り道で偶然耳にしてしまった医者と看護師たちの鬼気迫るビンゴ大会――
「ビンゴォ!!明日の担当はあたしだぁ!おっしゃー!!」
思わず吹き出しそうになった俺は、すずに告げ口した。
すると、すずはまた「ちょっと待っててね」と拳を握りしめ、病室を出て行った。
その仕草ひとつに、心臓が跳ねる。
なんだかんだ言って、すずは俺のことを気にしてくれている――そう感じるたび、胸が熱くなる。
リハビリから部屋に戻ると、すずがソファに座って待っている。
「今日は何する?」
その笑顔を見ただけで、疲れた体がふっと軽くなる。
「散歩……にはまだちょっと早いかな」
「じゃあ、ゲームでもする?」
画面に向かって指を動かすだけの簡単なゲームでも、すずと一緒だと特別な時間になる。
笑い声を交わし、肩を寄せ合い、時にはお互いの頭を軽く預け合う。
小さな仕草、細かい視線のやり取り、ほんの一瞬の笑顔――それだけで心が満たされる。
こんな些細な時間が、今の俺には宝物だ。
「智也が入院しなければ、こんなこと出来なかったね」
すずの言葉に、胸の奥が締め付けられる。
でも、それは寂しさではなく、感謝の気持ちでいっぱいになる締め付けだ。
彼女もまた、この時間を噛み締めるように、そっと俺の肩に頭を乗せてくる。
その温もりが、全身に染みわたる。
心の奥まで、ふわりと温かく包まれるようだ。
彼女をもっと感じたいと肩に腕を伸ばして、引き寄せれば応えるようにさらに密着する。
満たされる感覚と増える切なさ。
この時は分からなかったが俺は大きな理由なく、すずと過ごせる入院生活が気に入っていた。
授業の専門用語や画面に並ぶ顔ぶれはまだ遠い世界。
でも、病室で過ごす彼女との時間は、確実に俺を“今”に引き戻してくれる。
生きていること、誰かに守られていること、誰かを大切に思うこと――そんな当たり前のことが、今は宝物に思える。
夕日が窓から差し込む時間、二人で画面のゲームに没頭して笑い合う。
時折、すずの笑い声が部屋中に響き、俺の胸の奥で小さな火花が散る。
「智也、ここにいてくれてありがとう」
その言葉に、心臓がぎゅっとなる。
返す言葉が見つからず、ただ彼女の手を握り返す。
この瞬間が永遠に続けばいい――そう願わずにはいられなかった。
大学生としての生活はまだ半分夢の中。
だけど、すずと過ごす毎日が、確かな現実として、俺の胸に刻まれていく。
少しずつ、俺はこの新しい日常に足を踏み入れている――すずと共に、生きていることを感じながら。
夜、病室は静まり返っていた。
窓の外には街の光がちらほらと瞬き、淡く黄色い光がカーテン越しに差し込む。
リハビリで疲れた体を横たえながら、俺は天井を見つめる。
一日の授業とリハビリでぼんやりと意識が揺れる中、ふと視線を動かすと、すずがソファに座り、薄く笑ってこちらを見ていた。
「まだ起きてるの?」
俺の声はかすれ気味だったが、すずは微笑みながら「うん、ちょっと待ってたの」とだけ答える。
その言葉だけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
すずはそっと席を立ち、俺のベッドのそばに座る。
「今日もよく頑張ったね」
その声には労いと優しさが溢れていて、思わず目を閉じて深く息を吸い込む。
「すず……」
言葉を探す俺に、彼女は小さく手を伸ばして俺の手を握った。
手の温もりが、疲れた体の隅々まで届くようで、胸の奥がじんわり震える。
「ねえ、明日は少しだけ散歩に行けるかもしれないわ」
その一言で、自然と笑みがこぼれる。
すずと一緒なら、歩くことも立ち止まることも、すべてが特別になる――そんな気がした。
ベッドの横で、二人で肩を寄せ合う。
小さな声で笑い合い、今日あった些細な出来事を交わすだけで、時間はあっという間に過ぎる。
互いの存在を感じながら、ただ隣にいる――そのことだけで、どれだけ幸せかを心から感じられる。
「智也、ここでこうして笑ってくれるだけで、私も嬉しいのよ」
すずが微笑む。
その笑顔に、自然と自分も笑い返す。
目と目が合った瞬間、言葉にしなくても心が通じ合う。
夜の病室は、静かで、穏やかで、二人だけの世界だ。
時間の流れさえ、ゆっくりで、優しくて、今この瞬間をずっと抱きしめていたいと思わせる。
「すず……ありがとう」
小さな声でつぶやく。
「私の方こそ、智也と過ごせて幸せよ」
すずはそっと肩に頭を預けてくる。
その柔らかさに、自然と背中の力が抜ける。
夜の静けさと、窓から差し込む街の光の中で、俺は初めて、自分が守られているだけでなく、守りたいと思える人がいるということを強く実感した。
この部屋の温かさ、すずの存在、手のひらの温もり――
すべてが、俺にとっての“生きている証”だと、深く心に刻まれる。
ただ、隣にいるだけで満たされる幸福感だけが、静かに二人の胸に広がっていった。




