39話:澪の宣言
この病室での朝にも慣れてきた頃、澪が真新しい高校の制服を着て、やってきた。
ついこの間まではまだ幼さの残る面影だったが初めて見る制服姿の澪に成長を感じた。
肩のラインや立ち振る舞いからも、ほんの少しだけ自信が滲み出ている。
「智也、調子はどう?リハビリは順調?」
少しだけお姉さんらしくなった澪の言葉使いに優しい微笑みが出た。
「ああ、問題なく順調だよ」
口にした瞬間、なぜか無意識にすずの方を見てしまう。
「澪こそ、大人っぽく……は言い過ぎか、制服似合ってるよ」
俺の言葉に満足げな表情を浮かべる。
「智也は中学の制服と高校の制服、どっちが好き?」
一瞬、言葉に詰まった。
制服の好みなんて、どうでもいいはずなのに。
すずが静かにこちらを見ている。
その視線は穏やかで、焦りも疑いもない。
「似合ってるよ。高校の制服」
澪の表情がわずかに緩む。
その時、簡易キッチンに立つ、すずがゆっくりと頷いた。
すずの反応に気付かないまま、澪は一瞬だけ視線を落とす。
でもすぐに、顔を上げた。
「……そっか」
少しだけ声を低くして、澪は言う。
「でもさ、制服だけじゃないよ」
まっすぐ俺を見つめ、言葉を重ねる。
「私、ちゃんと大人になるから」
まっすぐ俺を見る。
「だから――まだ諦めない」
挑発でも泣き言でもない。
宣言だった。
病室の空気が、ほんの少しだけ張り詰める。
すずはキッチンから離れない。
睨むわけでもなく、怒るわけでもなく。
ただ、そこにいる。
俺は喉が渇くのを感じながら、澪を見る。
「……何を諦めないんだよ」
聞かなくてもわかっている問いだった。
澪は少しだけ視線を泳がせて、それから肩をすくめる。
「さあ?」
わざとらしい。
でもその瞳は、冗談を言っていない。
「智也がちゃんと立てるようになるまで、ちゃんと歩けるようになるまで、ちゃんと前みたいに笑えるようになるまで」
一歩、ベッドに近づく。その距離のわずかさが、心臓の奥にじんわり響く。
「その間に、私も変わるってこと」
すずの目がほんのわずかに強くなる。
初めて、彼女の感情が伝わった瞬間だった。
「澪ちゃん…」
すずが、静かに名前を呼ぶ。
優しい声だった。
けれど逃げない声。
「智也は、競争の景品じゃないわよ」
澪は一瞬だけ眉を寄せるがすぐに落ち着いた表情になる。
「わかってるわよ」
「なら――」
「でも、好きでいるのは自由でしょ?」
被せるように言う。
その言葉に、すずは答えない。
ただ、俺の目を見つめる。その沈黙が、いちばん強い。
俺は目を閉じる。
どちらも、優しい。
どちらも、本気だ。
だからこそ、逃げられない。
窓の外で、春の風がカーテンを揺らした。
新しい季節が始まる音がする。
俺だけが、まだ立ち止まったままなのに。
「答えはまだ聞かない」
澪の手は強く握られていた――まるで不安を隠すかのように。
「遅刻しちゃうから行くね」
「澪……」
俺の声で澪の背中が一瞬止まるが振り返ることなく、病室を出ていった。
ベッドの横に飲み慣れたコーヒーが静かに置かれる。
「澪ちゃん、強いわね」
そこにはいつものすずの笑顔があった。
コーヒーの湯気が、静かに立ちのぼる。
けれど、その目の奥は澄みきっている。
俺は何も言えない。
「でもね」
カップの縁をなぞりながら、すずは続ける。
「強い人が勝つとは限らないのよ」
柔らかい声。
けれど揺るがない。
「智也が、どうしたいか。それだけ」
その言葉が、胸に落ちる。
俺は視線を落とす。
立てない足。
ハッキリと言葉に出来ない心。
どちらも、まだ動かない。
――動かないことを、俺は言い訳にしている。
すずは俺の前に立つ。
「焦らなくていいわ」
ほんの少しだけ、寂しそうに笑った。
「でも、いつかは歩き出してね」
俺の足ではなく、俺の“答え”に向けて。
「すず、もうちょっとだけ待って欲しい」
すずの瞳を捉えて、離さないように告げる。
時間が止まったかのような錯覚。
やがて、優しい微笑みを浮かべた、すずが目を逸らす。
「いいわよ、待つのは慣れてるの」
慣れてると言った表情には僅かな震えがあった。
何処か限界がきているようで儚い。
「私もそろそろ行くわね!」
すずも病室を出ていき、俺は一人窓の外を見つめていた。
カツカツと音を立てながら、普段より早い足取りで廊下を進む。
焦りを見せないために、すずは背筋を伸ばしていた。
智也が自分を選んでくれていることは感じている。
そして、約束のキャンプで告白するつもりなことも……。
――私もそうだから。
でも、言葉になっていない現状にすずは小さく息をついた。
期待と不安が交錯し、頭の中で言葉を何度も練り直す。
どれもまだ口には出せない――それがもどかしかった。
出口には先に出て行ったはずの澪が待っていた。
朝陽が窓から差し込み、二人の影を床に落とす。
澪の瞳は、さっきまでの笑顔とは少し違い、覚悟を帯びていた。
ゆっくりと、でも迷いなく一歩、すずに近づきながら言う。
「すずさん、二人きりで話がしたいの――私、ちゃんと向き合いたいから」
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