37話:小林
入院してからもう1週間が経った。
分かっていたことだが大学の入学式には間に合いそうもない。
ボソッと、すずの前でそんなことを漏らすと、彼女の目が驚きで大きく見開かれて、かなりびっくりされた。
そもそも、女性が沢山集まる入学式に男は出ないらしい。
特に襲われかけたことのある男は普通は参加しようなどとは考えないと言われてしまった。
でも、そこが俺らしいとも…。
すずといると自分に自覚が足りないことを思い知らされる。
「智也、ごめんなさいね」
「ううん、仕事は大事だから」
自分でも驚くほど、すずの優しさに心が震える。
すずは今日、どうしても外せない来客があるから出社する。
「午後には戻ってくるからね」
スーツ姿の彼女は、普段のふわりとした雰囲気とは違う、凛とした輝きを放っていた。
「すず、気をつけてね」
「智也も無理したら駄目よ」
「すず、来て」
俺は勇気を出して、両腕を広げる。
この行動に驚いたのか、すずは少し恥ずかしそうにしながらも優しく抱き着いてくる。
普段とは違う仕事モードの雰囲気に物足りなさを感じる。
「智也、ありがと。これで今日一日頑張れるわ」
目と目が合い、言葉以上のものを互いに感じ取る。
吸い込まれそうな瞳に受け身になってしまいそうだった。
「それじゃあ、遅刻しちゃうから行くわね」
日常に入り込んでいた安心感が離れるとかけがえの無いものだったのだと気付かされる。
病室の扉から出ていく寸前、すずが振り返る。
笑顔で手を振り、俺も手を振り返す。
ゆっくりと閉められた扉をすずが出て行った後も、名残り惜しく、手を振っていた。
私は後ろ髪を引かれる想いで病室から出ると気持ちを切り替える。
特別病棟だからか極端に人が少ない廊下をカツカツとヒールの音が響く。
その背中には気力と自信に溢れる女性が輝いていた。
すずがオフィスに入ると、待ち構えていた部下たちが一斉に詰め寄ってきた。
「社長、一週間もリモートして秘密の楽しみはどうでしたか?」
頼りになる部下の小林が資料を手に眼鏡をキランと光らしながら言う。
私はあまりの動揺に肩が大きく跳ねる。
その瞬間、頭の中に智也の顔がフラッシュバックする――守らなければ、絶対に。
「その様子ならさぞ楽しかったんでしょうね」
更に肩が揺れるが小林の顔が見れない。
胸の奥の秘密を、誰にも悟られたくない。
「社長、秘密の楽しみって何ですか?」
いつも明るい部下の森田がニヤニヤしながら腕を組む。
いや、森田だけじゃない……気付けば、私の周りには人垣が出来ていた。
私は深呼吸して、柔らかく笑いながら答える。
「みんな、ご心配をおかけしました。ただ、ちょっと事情がありまして…」
「事情って…うーん、まさか私用ですか?」
部下の佐藤がからかうように首をかしげる。
「そういうわけじゃありません。ええ、仕事に関わることで…」
私はあえて具体的には言わず、言葉を濁す。
「でもさっき!小林先輩が秘密の楽しみって」
森田は納得できない顔で資料を抱え直す。
佐藤はくすくす笑いながら、「社長、秘密主義すぎませんか?」と言う。
すずは軽く肩をすくめ、心の中で病室の智也を思う。
「……でも、どうしても守らなきゃいけない事情があるのよね」
「それって、男のことって言ってるようなものですよね?」
小林の言葉で全員が黙り込んだ。
全員が同じ目をしている。
それは本当なのか?と……。
私の胸の奥が一瞬ヒヤリとした。
全員が小林の言葉に視線を固定して、空気が止まる。
「……え、いや、ち、違……」
私は慌てて言葉を探すが、口から出るのは声にならないもごもごだけ。
岡田は資料を抱え直し、口を真一文字に結ぶ。
森田はニヤリと笑ったまま、何も言わずに小さく肩をすくめる。
佐藤は目をぱちくりさせてから、机の上の書類を不自然に叩く。
「……なるほど、社長も人間ですね」
森田がようやく口を開き、軽く笑いをこぼす。
その瞬間、空気が少しほぐれ、周りの緊張もゆるむ。
私は肩の力を抜き、心の中でそっと呟いた。
(ああ、でも、守らなきゃいけないのよね……智也を)
その時、佐藤が小さく笑いながら言った。
「でも、社長、そんな秘密の楽しみ、見つかると面白そうですね」
一同、また小さく笑いが漏れた。
私は思わず苦笑いしながら、内心で自分に言い聞かせる。
(フフ、バレなくてよかった……)
「さあ、みんな時間だから仕事をしましょう!」
号令で人垣はバラバラに散って行く。
廊下の静けさとヒールの音を思い出す。
病室で待つ智也の顔が頭に浮かび、私の胸が少し温かくなる。
「……でも、本当に守らなきゃ」
そう心で繰り返しながら、今日も一日を乗り切る覚悟を決めた。はずだった。
「何を守るんですか?社長」
一人だけ散っていなかった小林に聞かれ、私は石のように固まる。
「まさか…本当に男だったとは…」
その呟きは確信している風だった。
「だ、黙ってて……お、お願い」
小林は困った顔で頬に人差し指を添える。
「じゃあ、黙ってる代わりに給料を上げて下さい」
私は今日ほど、小林を逞しいと思ったことはなかった。
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