36話︰澪の決意
休日の光が病室に柔らかく差し込む。
外の世界は穏やかで、子どもの笑い声や遠くを走る車の音さえも、どこか平和に聞こえる。
だが、私の胸は決して静かではなかった。
目の前には、揺らぐ心を簡単には預けない智也――そして、その智也を自然に掌握しているすずがいる。
私の手には紙袋が握られていた。
中には、智也が子どもの頃から好きだと言っていた甘い菓子が入っている。
単純な差し入れなのに、この紙袋は今や私の全神経を集中させるための武器になっていた。
すずが知らない私たちだけの思い出。
“これで……今日は、絶対に揺さぶる”
心の奥で小さくつぶやく。
息を整え、ゆっくりと扉に手をかける。
病室に入ると定位置にあの女が我が物顔で座っている。
「智也、これ……差し入れ」
声は控えめで、でも意識はすべて一点に集中させる。
智也の目に届くよう、表情、仕草、手の動き――そのすべてを見逃さない。
視線はわずかに震える手に沿い、智也の指先、肩の微かな揺れ、眉の動きや瞬間的な呼吸の変化まで拾う。
智也はぎこちなく手を伸ばす。
利き手は骨折しているため、反対の手だ。
指先がほんの少しだけ震えている。
“効いてる……でも……まだ、油断できない”
胸の奥が熱くなる。
悔しさと興奮、焦燥と期待が渾然一体となり、血液が頭のてっぺんまで駆け巡る感覚。
私はその熱を、力に変えるように握りしめる手を少しだけ強くする。
――その瞬間、すずの手が滑り込んだ。
彼の手を優しく包み込み、肩にも自然に手を添える。
「じゃあ、ちょっとだけ、食べさせてあげるね」
私の心臓が跳ねる。
胸の奥で小さな波紋が立つ。
“……くそっ……安定感……私の一瞬の刺激を、軽く吸収する……!”
悔しさが波のように押し寄せ、小さな波紋のうねりは大きくなって、胸の奥へと叩きつけられた。
だが、その痛みの中で、微かに興奮が混ざる。
“まだ……まだ、いける……!”
私が見た智也の震えは幻なんかじゃない。
その証拠に動じないはずの安定感が動いたのだから。
私は紙袋からもう一つ菓子を取り出す。手がわずかに震える。
“ここで、もう一度揺さぶる……智也、反応して……!”
菓子を差し出す瞬間、目の端で智也の視線を追う。
呼吸、指先の震え、肩の力の入り方……すべてが心理戦の駒だ。
「こっちも、どう?」
軽やかな声。軽やかな仕草。
だが私の目は、智也の微細な反応に釘付けだ。
智也は一瞬、後ずさる。
その瞳に、静かだけれど揺るぎない決意を読み取る。
――自分じゃない。
私は、言葉を聞いたわけではない。
だが、智也の瞳の奥に宿る強さ、手の止まり方、口元に浮かぶ微かな緊張から、自分ではなく、すずに心を向けていることを無意識に理解した。
胸が締め付けられる。
悔しさ、切なさ、少しの羨望。
波のように押し寄せる感情。
涙こそ浮かばないが、胸の奥の熱は言葉にできない痛みとして押し寄せる。
それでも、私はその感情を飲み込み、次の手を考える。
“まだ……終わらせない……私にも、できることがある……次はもっと深く揺さぶる……絶対……”
紙袋の中の菓子を握る手がさっきよりも震える。
智也の微細な動き、表情、呼吸――そのすべてを次の駒として脳裏に刻む。
胸の奥の熱さは、悔しさでも焦燥でもなく、確かな決意に変わる。
勝敗はまだ決まらない。
智也の心は揺れている――だが、今はすずに委ねられている。
それを見抜いた自分の観察眼に、少しだけ誇りを抱く。
私は小さく息を吐き、視線を智也に戻す。
――まだ、終わりじゃない。
心の中で、言い聞かせるように静かに決意を固める。
諦めず、次の瞬間に備える。
胸の奥の熱と、紙袋の中のお菓子を握る手の震えが、まだ続く戦いの証だ。
外の光は穏やかに差し込む。
だが、私の心は嵐の中にあり、静かに、しかし確実に自分の存在を智也の胸に刻もうとしていた。
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