34話:昼
もうすぐ昼になる風が病室のカーテンを柔らかく動かす。
ベッドで二度寝している智也の息づかいは、私と2人っきりでも自然体で安定している。
嬉しことだが少し身体が鈍っていないか心配だ。
右腕も右足もまだ包帯で覆われ、松葉杖は部屋の中でしか使えない状態だから、今日は車椅子で外に誘おうと思っている。
「おはよう、お寝坊さん」
小さな声に、ゆっくりと瞳を開ける彼。
目の覚め方がまるで眠れる森の美男を彷彿とさせ、つい間近で魅入ってしまった。
私の顔が近くにあるのを認識すると眠さが吹き飛んだのか、血色が良くなる。
赤みを帯びた頬が、昨日よりも調子が少し落ち着いたように見える。
「ねぇ、ご飯食べたら少し外に出てみない?」
車椅子をベッド横に準備しながら、私はそっと手を伸ばす。
彼もここ何日か外に出ていなかったこともあり、嬉々として応じる。
気が急っているのか、不自由な身体を無理矢理動かそうとするので優しくペースを握る。
「動かなくて大丈夫。私が支えるからね」
彼は小さく息をつき、うなずいた。
昨日の夜と同じく、目を合わせるだけで安心するようだ。
包帯で固められた右腕を軽く支えながら、ベッドから車椅子へと慎重に移動するのだが彼の身体は逞しい。
なのでしっかりと安定させる為に、抱き着く形で支える。
彼が必要以上に私を意識していることを知っている。
私が誰でもない彼を求めていることは知られている。
支える為の触れ合いで静寂と確認が生まれた。
彼は私の首筋に顔を埋め、声が出そうになる。
その刺激で背中に回した手が切なく求める。
腰の力を奪われて、成す術がない。
不可抗力で彼をベッドに押し付けていた。
全てが駄目になる時間。
包帯の白さが視界の端に映る。
それでも――このまま堕ちてしまえば、どれだけ楽か……。
でも、心のどこかでまだ自分を抑えようとしている
「た、立たせるわよ」
「もう少し…このままで…」
私の言葉に素直に応じない彼が何故か愛おしい。
首筋に彼の息が当たるたび、下唇を噛んで耐える。
彼の腕が言う事を聞かない私の腰に回され、逆らえない。
なのに心地良く感じて、体重の全てを預けてしまう。
それを良しと捉えたのか、腰に回された手が身体のラインを撫でる。
彼につられて、音にならない呼吸の感覚が早まり、湿り気だけが増していく。
指先が身体の輪郭に沿うたび、理性の鎖が少しずつほどけていく感覚がした。
じんわりと伝わり始める体温と彼の手から与えられる刺激に、思考も身体もどうしようもなく壊れていく。
理性と情熱の狭間で動けなくなった私達を優しい春風が吹き付けた。
熱せられた感情を和らげるように……。
やがて、首筋から顔を離した彼の表情を見下ろす私の瞳は潤んでいた。
それは嬉しさと切なさだったと思う。
ぎこちないけれど、彼の手は私の頬をそっと触れる。
「……こうして支えてもらうと、本当に落ち着く」
その囁きに、私の心も身体も、静かに震える。
朝の柔らかい光が包帯に反射して、少しずつ解けていく緊張感を映し出す。
昨日よりも少し自力で座り直した彼の背中を支えながら、私は何事もなかったように軽く笑みを浮かべた。
ベッドの横に置かれた車椅子をテーブルまで押し、固定する。
「朝ごはんをテーブルに運ぶから、少し待っててね」
ちょっと遅い朝食を準備する間も彼の視線が気になった。
スプーンを手に取り、少しずつ食べさせる。
右手が使えないため、ゆっくり、でも確かに口元に運ぶ。
智也は小さく笑いながら、「うん、ありがとう」と声を漏らした。
声だけでも、昨日より明るく聞こえる。
食事が終わると、今日は外の庭園に出てみることにした。
男性特別病棟の別館には、色とりどりの花々が咲き誇る小さな庭園がある。
バラやチューリップ、季節の花々が並ぶ静かな空間で、少しだけ鳥のさえずりも聞こえる。
車椅子に座ったまま庭園へ出ると、オレンジ色の光が花々の間を通り抜け、彼の顔を優しく照らした。
「すず……きれいだね」と、彼は少し目を細めて花を見つめる。
私も微笑みながら、そっと彼の肩に手を置く。
「うん、本当に。外の空気も気持ちいいね」
車椅子を押しながら、ゆっくり庭園を回る。
足を骨折している彼のため、段差や坂道は私が先に確認してから進む。
小さな花の香りを吸い込みながら、二人きりの時間が静かに流れる。
ほかの患者はほとんどおらず、男性特別病棟の別館だから、ここでは二人だけの空間のように感じられた。
「こうして外に出られるだけでも、気分が変わるね」
智也の声に、私は頷く。
手を握り直しながら、車椅子を押す力を少し強める。
「大丈夫?無理せず少しずつでいいからね。押してもらってるけど……」
彼は笑いながらも、目を細めて花を眺める。
昨日の夜よりも、少しずつ表情が柔らかくなってきていることがわかる。
「すずの好きな花は何?」
何気ないひと言、でも私の事をもっと知りたいという気持ちが伝わってきた。
「私の好きな花はガーベラかな」
「前向きな、すずらしい花だね」
「智也……そんなふうに言われると、ちょっと照れるわ」
小さく笑いながら視線を花に落とすと、智也の手がそっと私の手に触れ、軽く握り直してくる。
「でも、本当にそう思う」
彼の声は小さく、けれど確かに私の胸に届く。
「すずがそばにいると……花も空気も、全部優しく見えるんだ」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。
私は無意識に肩を少し寄せ、呼吸を合わせるように智也を見つめた。
視線が交わる瞬間、言葉にできない気持ちが静かに行き来して、二人の間に甘く切ない空気が漂う。
「私も……智也と一緒にいると、落ち着く」
そう小さく囁くと、彼は軽く目を閉じ、頬を赤く染めたまま私の手をぎゅっと握る。
花の香りと柔らかな光に包まれた庭園の中で、時間だけがゆっくり、二人の胸の鼓動に合わせて流れていく。
「すずがいてくれるから、安心する」と、小さく囁かれた言葉に、また瞳が潤んでくる。
私たちが共に過ごした時間は確かに実を結んでいた。
庭園のベンチに座ると、花の間に小鳥のさえずりが響く。
右手を支え、腕を少し触れ合いながら、二人は沈黙のまま空気を共有する。
言葉がなくても、互いの存在だけで心が満たされる――そんな時間が、静かに広がっていく。
しばらくすると、智也が小さく息をつき、車椅子に身を預ける。
「すず……ありがとう、こうしてそばにいてくれて」
「私が智也と一緒にいたいからいるのよ」
微笑みながら手を握り直すと、彼は小さく頷き、目を閉じる。
「すずとまた、違う季節の景色も見てみたい」
「うん、私も……」
車椅子に座ったまま、庭園の柔らかな光と花々の香りに包まれて、二人だけの優しい約束が交わされた。
花が咲き誇る庭園での優しい記憶を刻みながら。
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