33話︰家族
澪が退室した病室には、僅かな熱とひりつく冷気を残していた。
朝のひと時、温くなったコーヒーに口をつけ、病室内を見渡す。
そこには俺の他にもう一人、身なりを整えたすずがいる。
俺は自然と彼女を目で追ってしまう。
耳にはイヤホンをつけ、パソコンに向かってやり取りをしている。
その横顔はデートの時とも、さっきまでベッドで甘えていたすずとも違う、彼女の一面。
俺の知らない彼女の横顔に視線が外せない。
ベッドに座り、利き手の骨折で不自由な体を抱えながら、体温計を取ろうとして落としてしまう。
普段なら簡単にできることも、今は片手で行うだけで疲れてしまう。
少し苛立ちを覚えている俺の元に彼女が駆け付ける。
不自由な俺を見ても、変わらない。
むしろ優しい笑顔に心は安心感に包まれた。
すずは押しかけ女房のように、病室のあちこちに目を配りながら、手際よく介護と仕事を両立させている。
机の上には書類が整えられ、パソコンで軽くメールを確認する程度。
それでも、俺のそばを離れず、さりげなく毛布の乱れを直したり、水を置いたりする姿は、まるで自然の一部のようだった。
「智也、少し腕をここに置いてみて」
柔らかい声に促され、俺は無理のない範囲で手を置く。
すずは片手で支え、優しい声で「大丈夫?」と尋ねる。
骨折で手が使えない自分にとって、ささいなサポートのひとつひとつが、女神のように見える。
俺は胸の奥で小さく呟く。
…すごいな…格好いい…
すずはベッド脇の小さな台に朝食を準備しながら、智也に穏やかに話しかける。
「食欲はある? 痛みは大丈夫?」
「うん、まあ…なんとか」
不便な体を気遣ってくれる声と笑顔に、心はほっと緩む。
その時、病室のドアが静かに開いた。
俺の母さん、白石香菜さんだった。
「あら?ひょっとして、すずさんかしら?」
朝食を食べさせようとしていたスプーンを置き、落ち着いて立ち上がる。
「初めまして、立花すずと申します」
目上の人を敬う綺麗なお辞儀。
堂に入ったその姿は一種の貫禄を纏っていた。
「初めまして。智也の母、白石香菜です」
母さんはすずより、わずか二歳上。
同級生といってもほぼ遜色ない年の差。
「母と言ってもまだ、2週間程度なんですけどね」
そこには固くならないでと言外の気遣いがあった。
すずは初対面の緊張感はあったが、自然な笑顔を崩さずに応える。
「私も智也君と出会って、まだ1ヶ月にも満たないので」
1ヶ月にも満たない。
その言葉に確かにお互いに初々しさがあるなと思った。
「智也、調子はどうだ?」
遅れて親父が病室に入ってきた。
「あなた、遅いですよ〜」
「ごめんごめん、駐車場に気になる車が止まってて、ついつい」
「親父、その車ってもしかして、真っ赤なスーパーカー?」
「おっ!智也も見たのか!」
車の話で盛り上がれちゃうところとか、血は争えないなと思う。
すずの顔をチラッと見れば、何だか気まずそうにしている。
「もう!まずはすずさんに挨拶でしょ!」
「あ〜、すずさん。おはようございます、それから智也のお世話をしてくれて、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ無理なお願いを聞いて頂いて感謝しております」
「いやいや、そんな無理なお願いだなんて…」
そこで言葉を区切るとニヤついた顔で俺を見てくる。
「智也、良い夢見れたか?」
「「!?」」
一瞬だけ、俺達の視線が揺れた。
けれど、すずはすぐに微笑みに戻る。
俺はまんまと親父にしてやられた。
親父は母さんに向かって意味ありげに頷いた。
――泊まり込みは俺が許可した、とでも言いたげに。
母さんはまだ少し警戒していたようだが、すずをじっと見つめる。
しかし、すずは落ち着いた態度を保ち、俺の状態や過ごし方を丁寧に説明する。
その声は安定していたが、膝の上で組んだ指先だけが、わずかに力を込めているのに俺は気づいた。
「食事は自分で少しずつできるけれど、利き手を骨折しているのでサポートしています。来週から大学なのでリモートで授業を受けられるように大学側との調整も私が少し手伝っています」
簡潔で具体的な説明に、母さんは眉をひそめることなく頷く。
「若いのに、しっかりしてるのね…」
母さんの声には、驚きと安心が混ざっていた。
俺は事実なだけに少し照れくさく目を伏せる。
でも胸の奥には誇らしさと、失うことを想像してしまう怖さがある。
今は支えられている側の自分が、いつか彼女を支えられるのだろうか。
頼もしいすずが、自分のそばにいてくれる…。
それが当たり前になってしまうのが、少しだけ怖かった。
骨折で不自由な自分でも、心は満たされ、安心して横たわれる。
母さんは病室の隅に立ちながら、俺の体調や生活について質問を続ける。
すずは一つひとつ丁寧に答え、時折柔らかく笑みを交える。
些細なことでも的確に答えるその態度に、母さんの表情は徐々に和らぎ、安心感が伝わっていく。
「こうして見ていると、本当に頼りになるのね」
母さんはつぶやくように言った。
「出来れば、私も智也君をお世話してみたかったかな」
俺は少し顔を赤らめ、照れ笑いを浮かべる。
「母さん、それは親父が嫉妬するからやめて」
親父もそうだと頷いていた。
だが、胸の奥では再び誇らしさが膨らむ。
自分の大切な人が、こうして家族にも認められる。
両親はすずがいれば、問題ないと帰って行った。
病室が再び静かになると、すずはそっとベッド脇の椅子に腰を下ろす。
「今日は無理せず、ゆっくりしてていいのよ」
その声は小さいが、温かく、確かな穏やかさを届ける。
利き手が使えず不便な俺でも、心は穏やかにすず色で満たされる。
外の世界の喧騒は、まるで遠くにあるように感じられた。
二人だけの時間は、光と静寂の中でゆったりと流れる。
病室の光に照らされるすずの頼もしさと優しさ。
母親からの信頼、父親の微笑み。
自分の胸には静かな幸福が、ひとつひとつ積み重なっていった。
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