28話:冷戦
ガラガラガラ。
重たい音を立てて、特別室の扉がゆっくりと開く。
消毒液の匂いが、廊下の冷たい空気と一緒に流れ込んできた。
振り向いた私の視線の先に立っていたのは――昨夜、智也君の後ろに乗っていたであろう、あの子。
見た目はかなり若い。
中高生くらいかな…。
私と智也君の年の差よりも近い。
思わず喉が鳴る。
「……こんにちわ」
先に口を開いたのは、向こうだった。
「こんにちわ」
私も返す。
同じ言葉。
同じ高さの声。
けれど、そこに乗っている温度はまったく違う。
柔らかい声。
丁寧に整えられた響き。
でも――目は笑っていない。
静かに、まっすぐに、こちらを射抜いている。
その子はためらいなく室内へ足を踏み入れた。
学生らしい白いスニーカーが床を踏むたび、小さな音がやけに響く。
まるで、ここが自分の居場所だと言わんばかりに。
躊躇も、遠慮もない。
ベッドへと一直線に歩いてくる。
「智也、大丈夫?」
名前を呼ぶ声が、近い。
あまりにも自然で、あまりにも当たり前みたいで。
胸の奥が、ざらりと擦れる。
「澪……まだ帰ってなかったのか」
智也君の声が、ほんの少しだけ甘い。
ほんの少しだけ、安心を滲ませる。
――ああ、そう。
澪って、呼ぶんだ……。
私は無意識に、握っていた手に力を込めた。
ぎゅ、と。
その力に気づいたのか、澪の視線がすっと落ちる。
指先。
絡んだままの手。
シーツの上で、離れない距離。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ、空気が凍る。
「昨日から、連絡が取れなくて……」
静かに言う。
責めないように。
でも、ちゃんと心配していたと伝わるように。
智也君が苦笑する。
「スマホ壊れちゃってさ。すずさん、泣いてたでしょ」
「泣いてません」
即答。
でも、澪は私の目元をじっと見ている。
観察するみたいに。
測るみたいに。
どれだけ想っているのか、値踏みするみたいに。
私は泣き腫らした瞼で瞬きを一つだけ返す。
澪はベッドの横に立つと、慣れた手つきで点滴のチューブを避け、枕を直した。
指が、彼の肩に触れる。
……慣れてる。
距離が。
触れ方が。
無駄のない動き。
何度も同じことをしてきた人の手つきのように…。
胸の奥に、細い棘が刺さる。
「先生が安静だって。それと智貴おじさんが、必要なものあったらすぐ言えって」
“智貴おじさん”。
その呼び方に、軽く刺される。
家族の内側にいる響き。
許された人間だけが使える距離。
私は微笑む。
「そうなんだ。助けてもらったんだよね?」
声を整える。
感謝の形にして。
「……うん。智也が庇ってくれた」
澪の声が、柔らぐ。
その瞬間だけ、目の奥が揺れる。
守られた側の顔。
その一瞬で、はっきり理解する。
この子は、本気だ。
ただの憧れでも、依存でもない。
本気で、彼を想っている。
でも。
「そう。あなたが無事でよかった」
にこり、と笑う。
でも、手は離さない。
むしろ、智也君の指を絡め直す。
ゆっくりと。
見せつけるように。
澪の視線が、ぴたりと止まる。
呼吸が浅くなる。
部屋の空気が、少しだけ薄くなる。
「でも、おじさん達の代わりに私がちゃんと支えるから」
宣言。
穏やかな声。
優しい響き。
だけど、逃げ場を与えない言い方。
“これからもいる”と、当然のように告げている。
私は一拍置く。
間を、わざと作る。
それから、ゆっくりと答える。
「ありがとう。でも大丈夫。私がいるから」
にっこり。
目だけは、笑わない。
澪のまぶたが、ほんのわずかに揺れる。
わかっている。
言外の意味が、ちゃんと伝わっている。
智也君は気づいていない。
二人の間に、見えない刃が交差していることを。
金属が擦れるみたいな緊張が、確かにあるのに。
「……私、これからも来るね」
当然みたいに言う。
許可を求めない言い方。
私は首を少しだけ傾げる。
「うん。お見舞い、嬉しいと思う」
“お見舞い”。
間に線を引く言葉。
そこまで、と静かに告げる言葉。
澪の口元が、わずかに引き締まる。
「退院したら、また乗せてね」
扉の前で、振り返らずに言い残す。
タンデム。
二人だけの時間。
背中越しの距離。
密着する体温。
それを、あえてここで出す。
智也君はため息まじりに笑う。
「もうタンデムは禁止な」
軽い冗談のつもり。
でも――
その言葉に、澪の背中が一瞬だけ止まった。
ほんの、一瞬。
肩が、わずかに強ばる。
私はそれを見逃さない。
ドアが閉まる。
ガラリ、と。
静寂が落ちる。
さっきまで張りつめていた空気が、ゆっくり沈む。
智也君の手を握ったまま、私は思う。
(あの子、本気だ)
簡単には引かない。
たぶん、今の私と同じ、笑って戦えるタイプだ。
でも。
(負けない)
奪い合う必要はない。
焦らなくていい。
ただ――
“最後に隣にいるのが誰か”。
それだけ。
それだけが、答えになる。
私はそっと、智也君の手をもう一度握り直した。
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