ずっと夢見てきたんだ
弱ったな、身分差とはそんな軽々しく越えてよいものではないはず。
まるでそういう壁なんて最初からないと言わんばかりだ。
これ以上はもう、我慢ができなかった。
「アレク様、その壁を越えるのは容易ではないはずです」
「たしかに時間はかかったね、おかげでずいぶんと君を待たせた」
「……っ! そういう問題ではありません!」
「貴族となれば受ける教育も義務も負う責任だって平民とは桁違いだ。そういう意味でいうなら容易に超えてはならない境界線というものはたしかに存在する。愛という理由だけで超えてはいけない境界線を踏み越えれば、無責任と謗られることだってあるだろう」
「そうでしょう! 安易に境界線を踏み越えたって、そこから先で幸せには……!」
「でも身分にはね、もう一つの側面があるのは気がついている?」
アレク様は私を落ち着かせるように、ゆっくりと言葉を噛み砕く。
狙いを定めたように空の色をした瞳が細められた。
「義務と責任に身分がともなうのは、義務と責任を果たす者が身分によって守られるからだ。裏を返すと、義務と責任を負う者には相応の身分を与えて守られなくてはならない」
「……え?」
「身を守る術を与えないとすれば、それは管理する側の怠慢だね」
ハンナは王国唯一の白精霊師である。
そして神の意志により黒精霊師が生み出された今、抑えつけることのできる無二の楔となった。
それだけでも王国において十分に重要人物であるのに、翼人が見放されたせいで、辺境伯領において太古の神々と人とを繋ぐ聖女のような役割を担うことになった。
現時点ですでにハンナは然るべき身分を与えられる資格を十分に満たしていたのだ。
「王家でも白精霊師である君の身を守るために身分を用意するという話は、ずいぶんと前からあったんだ」
「そ、そうなのですか?」
「辺境伯領所属白精霊師という役名も我々が君を守護する名目で与えた身分の一つだよ。ただ君はあまりその重要性を理解できていなかったようだけれどね」
「うっ、すみません」
「しょうがないよ、だってそういう教育を受けたわけではないのだもの。それが唯一、君が高い身分を維持するために足りないところだ。それをこれから学んでいくにしても、今すぐ全部できるようになるというのは難しい。だから別の手段で補うのはどうだろう?」
「別の手段?」
「それは高位貴族との婚姻だ」
祝福の花が咲き誇る回廊で、アレク様が足を止めた。
向かい合わせに立つと、彼は優雅な仕草でひざまずく。
肩に飾られた星の意匠が彼の動きに合わせるように、日の光を受けてきらりと輝いた。
「ハンナ、私に君を隣で守る栄誉を与えてくれないか?」
「……っ!」
「夫として隣に立てば、堂々と守れるからね」
驚きを隠せず、ただ呆然と立ちすくむ。
時が止まったように動けない私にアレク様はくすっと小さな笑いをこぼした。
「言葉もないって感じだね」
「……だって、途方もなくて」
「精霊師の学校で学んだはずだよ? 清廉を好む精霊に嫌われる恐れがあるから、高位貴族といえど精霊師を無理矢理隷属させることはできない。そもそも君は稀なる白精霊師だから君自身が望むのならば主人となる相手を選ぶことだってできる。だから私も君の隣にいられるよう手を尽くすはずだと、そういう可能性があることは考えなかった?」
「で、でも噂では婚約者候補に王女様とか、侯爵家の御令嬢がいたと聞いていましたし……」
「気にしてくれていたということだね、うれしいよ」
まさか、嫉妬させるためにわざと火消ししなかったとは言いませんよね⁉︎
それなら、あのときの会話は?
「側近の方と奥様の部屋の模様替えについて相談されていたではないですか、だからてっきり……」
「君の部屋のことだよ。一足先に準備が必要だと思って彼に相談していたからね。君が客間で養生しているあいだに、内装の改修工事は済んでいるから今頃テレジア達が荷物を運び込んでいると思うよ。好みに合わせているから気にいるはずだ。よかったよ、今日に間に合って……」
「ちょ、ちょっと待ってください! 好みなんていつ聞かれていました⁉︎」
「聞かなくても見ていればわかるからね」
それって、見ているだけでわかるものなの⁉︎
ちなみにあとで部屋の内装を見たハンナが、あまりにも好みど真ん中で恐怖に戦慄したのは秘密だ。
呆然としたハンナをからかうように、アレク様が指先に唇を寄せる。
「もちろん寝室は別にある。こちらは将来的に私も一緒に使うから私の好みも入れさせてもらった」
指先から唇の熱以外のものを感じて、ポンと顔が赤くなった。
ちょっと待って、私にだって心の準備が……そうよ私の心の準備は?
「い、いきなり言われても困ります! それに今日のことは両親にも伝えていませんよ!」
「誕生日の宴会のことを伝えるついでに、ご両親には婚約の申込みをする許可をいただいているよ。お二人からは出席の返事とともに『ハンナが良いと言うなら』と念押しはされているけれどね。それからうちの両親にも話しているけれど、とても嬉しそうだったよ。『かわいげのない息子しかいなかったから、可愛い娘ができる』って喜んでいた」
「領主様と、奥様が?」
「私の言葉が信用できない?」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
タンガのときは、ご両親は納得していると聞いていたのに手のひらを返されたのよね。
領主様は仕事には厳しいけれど理不尽なことは言わない公平な方だし、奥様も表情や顔立ちがアレク様によく似ていて、分け隔てない優しさに満ちた領主夫人として尊敬できる方だ。
もちろん、お二人とも平素から私に対しても優しい。
だから疑っているわけではないけれど、一抹の不安は残る。
そんな私の不安を見透かしたように、アレク様が微笑んだ。
「両親からはちゃんと話して、互いのわだかまりがないようにすることが婚約の条件だと言われている。そのうえで、ハンナの覚悟が決まったら二人そろって許可をもらいにくるように、と。どうやら私の両親は息子である私の言葉がイマイチ信用できないらしい。息子としては、とても悲しいよ」
それはアレク様がこんなふうに外堀を埋めて、逃げられない状況に追い込む人だとわかっているからでしょうね!
そうか、それがわかっているからこそ彼のご両親は私に考える猶予をくださるつもりなのだ。
私に対する配慮を感じて胸の奥がほんわかと温かくなる。
アレク様が嬉しそうに微笑んだ。
「君の両親だけでなく私の両親や使用人達も皆、ハンナを大切に思っているよ」
「……ありがたいことです。私には、奇跡のよう」
「でも一番は私だけれどね。そこは譲らないよ」
軽やかな笑い声が弾ける。
こんな幸せを感じる日がくるとは思いもしなかった。
翼人の国では、望んでも得られなかった大切なもの。
欲しくてたまらなかったものが、ここにはちゃんと揃っている。
瞳を伏せ、アレク様の手をそっと握り返した。
「私は欲しいものに手を伸ばしてもいいのでしょうか?」
「もちろん、それが私の望みでもある」
勇気を奮い起こして顔を上げると、目の前にアレク様の顔があった。
光を弾く金の髪、そして誰よりも憧れた空の青。
「アレク様は翼人の国でご覧になったはずです。蝶の翅を持つ者として生まれた私は彼らの闇を象徴する存在。蝶の翅持つ者を虐げることが心の拠り所となってしまった彼らは、私が人となることを選んだとしても手離してはくれないのです。この過去は一生私についてまわります。いつかこの過去が、アレク様の足枷となるのが怖いのです」
「でもね、ハンナ。よく考えてごらん。……今の君の背にはもう、翅はないんだ」
言葉を失った私はゆっくりと瞳を瞬かせる。
そうだ、私の背にはもう翅はなかった。
まるで幼な子に言って聞かせるように、アレク様は言葉を紡ぐ。
「君の背にはもう翅はないんだよ、ハンナ。ないものが、どうやって君を縛り続けることができるのだろうね?」
翅を失ったからこそ、かつての私は冴えた青を罪人として見上げることしかできなかった。
誰よりも遠ざかったはずの青い空、それが今はこんな近くにある。
手を伸ばせば届く、こんな近くに……。
「稀なる白精霊師として、これからも君にしか頼れないことが出てくるだろう。私が辺境伯領の領主となったときには、やはり君に命をかけてもらうこともあるかもしれない。私は領主としてこの領と領民を守る義務がある。そして領主夫人となれば君にも同じように責任を分かち合ってもらわなくてはならなくなる。それでも、私は君に隣にいて欲しい。これは私個人のわがままだし、自由に飛び回る翅を持って生まれた君を地上に縛り付けることになる。それを知ってなお、私の願いを叶えてくれるのならば、私が差し出せるもの全てを君に捧げる」
「そんなにたいそうなものはいりませんよ! ただアレク様が隣にいるのならそれで十分です」
だって私が欲しかったものは、アレク様なのですから。
あわててそう答えると、アレク様はほんの少しだけ目を見開いて頬を赤らめた。
こんな可愛いのに……とか、口元を押さえながらつぶやいたつもりでもちゃんと聞こえてますよ!
ついに言ってしまった。
なかなか頬の赤みがひかない私の顔を、アレク様が嬉しそうに覗き込んだ。
「では答えを聞かせて?」
「あなたが好きです。私にもあなたの隣を守る栄誉を与えてくださいませんか?」
次の瞬間、一層強く手が引かれて、気がつけばアレク様の肩越しに空を見上げていた。
胸に閉じ込められながら、そっと彼の背中に手を添える。
「……やっとだ。やっと夢が叶う」
「ふふ、大袈裟ですね!」
「ずっと夢みてきたんだ。愛する人が、変わることなく隣にいてくれるという夢を」
たくさんの人に囲まれながら、この人もまた孤独に苛まれてきたのか。
唐突に、ハンナはそう悟った。
答える代わりに、これからは彼一人で戦うことはないのだという思いが伝わるようにと抱きしめる腕に力をこめた。
思いは伝わり、より強く深く胸元へと引き寄せられる。
「離さないでください」
「約束する」
二人を祝福するように蕾は開き、木々は揺れ、鳥は歌う。
そしてどこからか風に乗って、誰かの歓喜するような声が響いた。
ーーーーーー
大広間の扉が開く。
すでに準備を終えていた宴会場には花だけでなく招待客があふれていた。
はじまりは身内だけのものにする予定が、気がつけば稀なる白精霊師を一目見たいと願う領民のために、この場を提供することになったのだ。
彼らは皆、精一杯気張った衣装のそこかしこに春の花を飾り、主役の登場を待ち望んでいる。
そして開始予定時間より少し遅れたところで、主役であるハンナ嬢がブンデンベルク辺境伯子息にエスコートされて姿を現した。
ローブの代わりに身につけた澄んだ青の裾の波打つドレスを翻し、招待客へ優雅に淑女の礼を返す。
彼女が顔を上げた瞬間に、場は静まり返った。
美しいとは聞いていた、だがこれほどの美しさだとは思わなかった。
瑕疵一つない整った顔立ちに、しなやかでたおやかな肢体。
全てが朝露に濡れる花のように清らかで、気品高く、麗しい。
「……春の女神のようだ」
つぶやいた誰かの声がきっかけとなって人々は夢から覚めたように熱狂した。
だが彼女のまとう神気に満ちた雰囲気が適度に興奮を冷ましたようで、人々は畏敬の念を抱きつつ礼節を保ちながら彼女と辺境伯子息と挨拶を交わす。
秀麗な美しさと戦闘時にみせる苛烈な性格から金の獅子とも呼ばれる男が、ときに大胆にそして常は細やかに彼女を支える姿は、女神を守る守護者のようだと人々は密やかに語り合った。
やがて宴も最高潮に達したころ。
人々の前に春の使者である蝶が舞い降りた。
黒目に黒髪を持った、どこかハンナ嬢によく似た雰囲気の少女。
彼女もまたぱっちりとした目元と野薔薇のように赤い唇をした愛くるしい少女だった。
夢見るような眼差しで頬を赤らめた美少女は華やかな装飾が施された花束をハンナ嬢へと差し出す。
「ハンナおねえしゃま、おたんじょうびおめでとうごじゃいます!」
舌足らずな言葉を鈴を鳴らしたような可憐な声が紡ぐ。
懸命に大きな花束を差し出す愛らしい仕草に、招待客だけでなく見守る使用人達も目を潤ませ悶えていた。
そして驚いた顔でそれを受け取るハンナの慈愛に満ちた微笑み。
さすが白精霊師、辺境の地に舞い降りた豊穣と慈悲の女神の使いと呼ばれるだけある。
実のところ、この場には白精霊師であろうと平民が目立つことを良しとしないという考えの人間が混じっていたのだが、めざとくも勘づいた辺境伯子息の指示で排除されていた。
だがもしこの場に残っていたとして、身分の高さがあろうと何もできなかっただろう。
もし手を出せば物理的に辺境伯によって、そして輝かしい未来は女神によって不幸なものに書き換えられてしまうと思わせるような、故意に傷つけがたい空気があふれていたから。
結果、何事もなく平穏無事に宴は続いていく。
そしてまもなく宴も閉幕となる頃合いになったときのこと。
「ご子息様、ハンナ嬢とお付き合いをされているのですか?」
酔った招待客の一人が声を上げた。
よくぞ言ったと褒めるべきか、よくぞ言えたと酒精の威力に慄くべきか。
場は、しいんと静まり返る。
招待客の表情は千差万別、だが期待に満ちた目と心は皆同じ。
すると周囲を一瞥した辺境伯子息は期待に応えるべく嬉しそうに口を開いた。
「誠心誠意、心をこめて口説き落としたところだ」
「なっ!」
人々の顔に浮かぶのは、驚愕、歓喜、とまどいに落胆。
さまざまな表情が浮かぶけれど、嫌悪はひとつもなかった。
そのことに白精霊師は内心で安堵する。
そして次の瞬間、一斉に自分へと視線が向いたことで慌てふためいた。
あふれんばかりの期待に満ちた人々の顔。
……これは諾と言わざるを得ない空気ではないの!
はめられた、そのことに気がついたときにはすでに遅かった。
一段高い領主席では、ご領主と領主夫人が揃って頭を抱えている。
ご領主などは「そういうところが信用ならんのだ」という心の声が聞こえてきそうな表情をしている。
彼らの足元に並ぶ両親の表情からは嬉しそうな、でも心配もしているという複雑な心境が読み取れた。
たしかに遅かれ早かれ、なのだろう……青い空に囚われてしまった私には。
でもやられたままでは口惜しい。
白精霊師は、にこりと微笑んだ。
「のちほど領主様に私の答えをお伝えする予定でおりますの」
最終決定権は領主様にある。
ですから今はまだ何も決まっていないのですよ、という含みを持たせた答えはせめてもの意趣返し。
彼女には領主夫人から、よくぞ言ったという満足げな微笑みが贈られた。
「……ということなので皆様には是非に、うまくいくことを祈っていていただきたい」
普段の強気な表情とは裏腹に、ほんの少し情けない表情を浮かべた辺境伯子息。
場の空気がどっと沸く。
そして年若い女性たちは、劇的な恋の物語の行方に心躍らせた。
彼女達から憧れの眼差しを向けられた白精霊師は、居心地の悪さに視線を泳がせる。
だから、きゃっきゃと盛り上がる女性達の声のなかに自分の母が含まれることには気がつかなかった。
そして、いよいよ宴はおひらきに。
領主が招待客へ向けた締めの挨拶とともに白精霊師へは祝辞を贈り、若い二人が揃えたように優雅な所作で礼の姿勢をとり退出する姿を招待客は満足げな顔で見送った。
こうしてハンナの誕生日会……実態は領民へのお披露目だったが、興奮さめやらぬままに幕を閉じた。
一応ハッピーエンドですが、もう少し続きます




