彼は生きているのでしょうか?
季節は巡る。
厳しい冬を越えて柔く暖かい春がくる、そんなころ。
三ヶ月ぶりにハンナは精霊術を使った。
「よーし、完治!」
「よかったね、おめでとう」
アレク様の声に喜びを感じとり、幸せを噛み締める。
タンガとの闘いを制した、あの日。
ハンナは力の枯渇により一時は生命の維持すら危ぶまれたらしい。
……でしょうね、間違いなく死にかけたもの。
なにしろ夢の中でハンナは見知らぬ白い世界をさまよったからだ。
今思うと、あれは間違いなくこの世ではないところ。
だって見上げてもハンナの大好きな青い空はどこにもなかった。
そして天から降り注ぐ優しい声に、もう一度青い空を見たいか聞かれたの。
現実ではこんなことあり得ないでしょう!
『ええ、見たいわ!』
夢の中の私は子供みたいにせがむ。
しょうがないわねと軽やかに笑う声がして、見上げた先に青い空が広がった。
摩訶不思議な、太陽と月と星が共存する至高の青。
その想像を超えた美しさに吐息がこぼれる。
『私の愛おしい子。頑張ったご褒美に小さな贈り物をあげるわ』
どんな贈り物かしら?
はしゃぐハンナを残して声は途切れた。
その代わりに、今度は切なく乞い願うような別の声が聞こえる。
「……ハンナ。君の声が聞きたい」
ええ、私も。
かき消えるように白い世界が遠のいていった。
私もよ……、アレク様。
全てを思い出したハンナは、ぱちりと目を開けたのだ。
「いやー、まさか自分が一ヶ月以上も眠っていたなんて、思いもしませんでしたよ!」
「そうだね、私も君がなかなか目覚めなくて心配した。……君がいなくなったらどうしようって」
「それは心配でしたよね、あははっ!」
ようやく意識を取り戻してみれば、季節は秋から冬へと移り変わっていた。
真面目な表情で痛みをこらえるような顔をしたアレク様に、どう返したらいいかわからなくて。
辛うじて無難な言葉を選んだ私は笑い飛ばす。
おかしいな、二人のあいだに愛はないはずなのに?
「あのときは自分の部屋ではないから余計に混乱しましたよ!」
「君の部屋は一人用で手狭だから介護にはむかないからね」
「そうなのですか? あれでも十分広いと思っていました」
「世話をする侍女や自衛できない状態にあった君を守るための警備を配置する必要もあったからね。客間は元々そういう作りになっているから好都合だった。それに君の部屋は私の執務室から少々離れている。時間があいたときに、すぐ会いに行けないだろう?」
その言い方……!
まあ優しい人だもの、部下の容態くらい気にするよね。
そして仕事の合間のついでに見にくる……よね?
今は違和感なく馴染んだ客間を見回す。
最初はここがどこかわからなかった。
ほのかに感じる消毒液の匂いと、むせかえるような花の香り。
視線の先にある花瓶に活けられているのは百合に薔薇、春にしか咲かないはずのチューリップやマーガレット、そして野に咲く名もなき小花まで。
季節感に乏しい花の洪水は、かつての自分がやらかした失態を彷彿とさせた。
……誰がこれを?
まだ日は高いところにあるから時刻はお昼を少し過ぎたところか?
カーテンの隙間からこぼれる光が眩しくて、衝動的に目をつむった。
すると誰かが扉を開ける音がしたのだ。
足音は注意深く、滑らかな動きで私の眠るベッドへと近寄ってくる。
近づくたびに花の香りに混じって、ふわりと優しい香水の匂いがした。
「……ハンナ?」
足音の主が誰なのかは、声と匂いでわかった。
はいと返事を返したくても、出し方を忘れてしまったようで声が上手く出ない。
目を開けるのもまだ辛いし、仕方なく無言のままで寝たふりをする。
やがて諦めたようにカサカサと音がして、瓶のような硬いものの触れ合う音がして……。
先ほどまでとは別の花の香りがした。
ああ、こうやって毎日花を活けてくれたのか。
ほんの少しだけ表情筋が崩れて口角が上がる。
薄いカーテンが引かれ、椅子を引く音がして隣に座った。
労るように、そっと手が握られる。
そして彼の肌が握られた手の甲にあたった。
柔らかな髪が跳ねて、私の手に触れる。
「いつまで寝ているつもり? 君がいない世界がどれだけ色を失うのか、もう十分にわかった。だからね、そろそろ目を覚まして? そしていつもみたいに勇敢で愛らしい君の言葉を聞かせてほしい」
彼の声は目覚めを待ち焦がれているかのようだった。
胸の奥がきゅっとして、ちょっとだけ意地悪な気持ちが芽生える。
いつも振り回される側なのだから、多少なら寝たふりをしてもいいよね?
沈黙が支配する空間に、柔らかな風がカーテンを揺する音がする。
これからどんなうれしい言葉が聞けるのかと耳を澄ましたところで……なぜか頬を摘まれた。
「いけない子だ」
「!」
「やっぱり起きているよね? 口元がひきつってる」
「……」
「今更寝たふりをしても無駄だよ? 瞼の下で眼球が動いているもの」
あきらめて、うっすら目を開くとベッドの端に片肘をついたアレク様が微笑んでいた。
少しだけ痩せたのかしら?
光り輝くような容姿は相変わらずだけれど、疲れたような陰が見える。
とにかく起きているとバレてしまったし、なにか言わないとね。
二、三度軽く咳ばらいをしてようやく声が出た。
「おはようございます、アレク様」
「おはよう、ずいぶんと遅い目覚めだ」
自分のものとは思えないほどに、かすれたひどい声だわ。
それなのにアレク様は心底安堵したような表情を浮かべる。
彼は私の手の甲に唇を寄せて、キスを一つ落とした。
そして反対の手では、慈しむように私の髪をなでている。
嘘が暴かれた日を思いおこさせるような熱烈なふれあいに、ただ目を丸くする。
頬が赤くなったのを感じて、気がつかれないうちにと顔を隠すように身じろぎした。
すると骨が軋むような鈍い痛みに襲われて、思わず声を喉に詰まらせる。
いつもの怪我とはどこか違う痛みを感じた。
医師によれば破壊と暴虐の神の力が治癒を遅らせているのだという。
術式の効果を阻害するという神の力は強力で、白精霊師の私とて例外ではなかったらしい。
野生の動物が傷を癒すために深く眠りにつくのと同じように、あれからずっと眠り続けていたそうだ。
アレク様にはここまで無理をしたことを叱られ、傷口を保護するための当て布だらけの顔で唯一無事だったという頬をもう一度摘まれた。
うう、叱りながら集中的に狙うなんて酷すぎる。
そこから精霊師の医師の診察を受け、体内に力をためる器の修復が済むまではと精霊術の使用を禁じられて……ようやく今日、精霊術で自分に治癒を施す許可が出た。
内部に残る違和感も外傷も全てきれいになったし、よく寝たからいつも以上に体が軽いわ!
窓から景色を眺め、枯れ木に芽吹いた若芽の鮮やかな緑色に目を細める。
木々が枝を揺らして、おかえりと手を振ってくれているかのよう。
微笑んで、小さく手を振りかえす。
私が守りたかったものは、ちゃんと今もそこにあって新たな命を芽吹いていた。
「……あの日から三ヶ月も経ったのですね」
もうずいぶんと昔のことのように思える。
こうして傷は癒えたし、過去の出来事も少しだけ記憶から遠ざかった。
聞きたいと思いながらなんとなくためらっていた言葉を、これでようやく口にすることができる。
「タンガはどうなりましたか?」
黒精霊師となったタンガ。
羽を切り落とされ、翼人としての資格も賢者としての名誉も奪われたタンガは、その後どうなったのか。
「彼は生きているのでしょうか?」
楽観的なものから悲惨なものまで、あらゆる可能性が考えられるから聞かずにはいられない。
もし国に害をなす存在として即刻命を奪われていたら?
命を救ったつもりでいたのは私だけで実は救われていなかったのではないか。
その可能性も十分あり得るからこそ、聞くのが怖かった。
視線を下げた私の髪をアレク様の手が優しくなでる。
「大丈夫、タンガは生きているよ」
「ほ、本当ですか⁉︎」
ああ、よかった。
胸に手を当てて深く息を吐くと、アレク様が笑いながら支えるように軽く背に触れる。
その手つきが優しくて、心音が跳ね上がった。
「破壊と暴虐の神の愛し子とされているから命は奪えないよ」
「それもそうですよね!」
「だが精霊術の術式を破壊し、あらゆる効果を阻害する黒精霊師の力は精霊術を多用する王国にとって忌避すべきものだとわかった。王都へ移送された当時の彼の未来は決して明るいものではなかったよ」
これまで黒精霊師の力は記録にも残っていない未知のものだった。
言い伝えでも破壊と暴虐の神の愛し子ということしかわかっておらず、良きものか悪しきものかもわからない。
それがようやく明らかになったのだ。
しかもタンガにとっては最悪の形で……。
まるでワムシャリア王国を滅ぼすために遣わされたとしか思えない黒精霊師。
そもそも黒精霊師という存在が希少であった理由もこれでわかるというもの。
言うなれば、人という形をとった破壊兵器。
移送された当初は封印をつけて死ぬまで幽閉という意見が最有力だったという。
「それがね、たった三日だ」
「えっ⁉︎」
「たった三日で、タンガは自分の運命を変えた」
アレク様は面白いものを見たと言わんばかりに、ほんの少しだけ頬をゆるめた。
黒精霊師としての恩恵か、それとも翼人としての名残か。
ハンナが治せずに残された外傷や体内の損傷は膨大な黒の力で瞬く間に修復されたという。
そこで力を封じる呪具をつけ、すみやかに王都へと移送されると地中深くにある地下牢へと収容、研究所の職員が派遣されて、タンガの力を検証することになった。
そこで明らかになったのは、タンガの持つ力とは一般に知られる魔力とも体内に満ちる力とも違う質のものだということだった。
前例もなく、資料も記録にも残っていない第三の力。
誰もが理解することすら諦めていた。
「その未知なる力を、たった三日でタンガは完璧に制御した」
「は?」
「ハンナから得た知識を活用したらしいよ? 見方によっては、君のはじめての弟子ということかな?」
まさかそんな。
呆然とした表情を浮かべたハンナを見て、アレク様は口角を上げた。
力の制御に難のあったハンナは、それはもう苦しんだ。
夢に見るくらい反復練習をして、ようやく合格ラインに達するまで一年半もかかったというのに!
脳裏にルオの軽薄そうな微笑みが浮かぶ。
どこがカッコつけで、無様なのよ!
アホみたいに優秀じゃないの、あなたのいうことなんかもう絶対に信じないからね!
「説明しにくいから仮に黒い力とでも呼ぼうか。タンガは黒い力を一欠片も漏らすことなく体内に抑制できるようになった。しかも一週間後には任意で排出することも可能になった。そこからさらに一週間後には呪具を外す許可がおりたよ。とはいえ、危険な存在には変わりないから、それだけではいいところ王都の片隅に軟禁だっただろうけれどね」
「違うのですか?」
「研究者と協力して新たな術式を開発した」
「……ま、まさかそんなことが」
「彼は『黒印』と名付けた。神が与えた黒い力で文字を刻む。式のもたらす主な効果は無効化。魔法や精霊術による呪いを破棄して抹消する術式だ。つまり君の操る浄化と同じ効果をもたらすものだね。もちろんまだ改良の余地はあるけれど、正直なところ、彼がここまで優秀だとは思っていなかったな」
ハンナは目を丸くする。
なんと、自分にも人にも厳しいアレク様が大絶賛だ!
制御に難があった過去の自分を思い出して、ハンナは顔をしかめた。
表情から心を読んだらしいアレク様は軽やかに笑う。
まだまだ私はこれから成長するのよ、出遅れても最後に勝てば勝ちだもの!
「それで、今彼はどうしているのですか?」
「地下牢からはもう出されているよ。君が一番よくわかっているだろうけれど、神に与えられた力をどう使うかは術者次第だ。そんな彼は破壊と暴虐の神の黒い力を良い面で活用できるという価値を示した。罪といっても器物破損、人の命を奪ったわけではないし、こうなると国も一生牢に繋いだまま放置というわけにはいかないだろう? 国益にもつながる可能性もあるからと、王家は彼と協力関係を築くことにした」
「どうするのですか?」
「精霊術に影響が及ばない国外に滞在することが決まった。国外にある我が国の拠点に客人として逗留する。今後は国から援助を受けつつ、新たな術式の開発に協力するそうだ」
「つまり、この国から出て行ったのですね」
「万が一でも力が暴走する可能性がある以上は国内に留め置くことはできない。これも研究段階でわかったことなのだが、黒精霊師は精霊に嫌われやすいらしい。どうやら精霊術と相性の悪い破壊と暴虐の神の愛し子だからだろうと考えられている。単純に彼が精霊から力を貸してもらえないというだけならまだいいけれど、もし彼の滞在を許したことでワムシャリア王国自体が精霊にうとまれてしまえば我々が精霊術そのものが使えなくなってしまう」
「それでタンガは、いつ国外に?」
「一刻も早い出国が望まれたからね、すでに国外へと移住している」
もう一ヶ月もまえのことだとか。
顔を上げて、思わず窓の外に視線を向けた。
別れの挨拶をかわすことなく、彼はあの山の向こう側へと旅立ってしまったのか。
私のような高位の精霊師は国にとって財産であり、手厚く保護される代わりに国外へ出ることは許されない。
そしてタンガも、この国に戻ることは許されないだろう。
私たち二人が顔を合わせる日は、もう二度とこない。




