だって同情を愛とは呼べないもの
地上へと降りる洞窟の前でハンナは待ち受けていたと思われるタンガと向かい合った。
この場所に再び立つとは思わなかったわ。
レンカと呼ばれていたかつての自分に戻ったようで懐かしく、背に小さな痛みを覚えた。
翅を失ってからずいぶん経つけれど、この痛みを忘れることはないだろう。
タンガはアレク様に深く首を垂れた。
賢者候補達も、それに倣う。
「このたびは力を貸していただき、ありがとうございます」
「ワムシャリア王国ブンデンベルク辺境伯領領主代行として、貴殿が苦難を乗り越え賢者となられたことをお喜び申し上げる」
紆余曲折を経て、タンガは賢者となった。
最後まで狩猟長、管理者や彼の取り巻きである一部の者は反対したそうだ。
だがそれ以外の者からの反対意見は出なかった。
支配される側である彼らには私やアレク様の精霊術がもたらした効果が衝撃的だったらしい。
蝶の翅を持つ者がいない今、古いやり方を守り続けるだけでは今までの生活水準を維持することすら難しいと判断したのだろう。
自業自得だ、翼人は自らの伸びしろを手放したのだから。
子供達には辛い思いをさせてしまうけれど、彼らが成長して自立できるころには、人と共存共栄できる新たな道を示してやれるようにしたいとタンガは語っていた。
「まだ賢者に選ばれたばかりの身です。実績を積み重ねて、信頼してもらえるよう努力します」
謙虚な姿勢は崩さないが、経験を積んだことにより自信に満ち溢れ、かつてよりも輝いて見えた。
たしかに、ちょっと見直したわ。
誰かのためにと努力する姿は、心揺さぶられるものがある。
かつて夕闇の中で失ってしまった温かなものがほんの少しだけ胸の奥にあふれていた。
タンガの視線がこちらを向くのに合わせて、私もローブの裾を摘み軽く膝を折る。
胸に手を当てて礼の姿勢をとった。
「おめでとうございます。賢者と賢者候補の皆様のご活躍を祈念し、私からささやかながら贈り物を」
風に乗せて祝福を贈る。
天から光の粒が降り注いだ。
抵抗力の底上げと、災難除け。
呪具のように永続的なものではないけれど、しばらくは彼らが災難に見舞われることなく体調を崩さずに済むだろう。
タンガは光の粒を手のひらで受け止めて目を細めた。
ただ幸せそうに微笑む。
「ありがとう、身も心も軽くなったよ」
「交渉おつかれさま、色々課題もあって大変だったでしょう? ご両親はなんと言っていたの?」
「細々と裏で画策していたようだから釘を刺してきた。もう好きにはさせない」
一見すると優しそうなご両親だったのにね。
画策とは穏やかでない。
そこはやはり鴉の羽を持つ者、己の欲が絡むと本質が現れるということか。
「両親はトウカとの婚約は俺のためだと最後まで繰り返していたよ」
自分達のためだろうにと、タンガは吐き捨てた。
レンカとトウカを比べたら翼人としての立場には雲泥の差がある。
何もできないレンカに比べて鷹の羽を持つトウカならば、国のために働くタンガの助けとなると思ったらしい。
はじまりは、ご両親の一人息子に対する愛情だったのだろうな。
だけど彼らのお節介は、本気で賢者を目指す息子にとっては枷をつけたのと同じだった。
これ以上高く飛べないように、地上へと縛りつけるための足枷。
そう思えば賢者という仕組みもまた、蝶の翅と同じように翼人の国へと縛りつけるためのものに思える。
たしかにハンナとタンガは、同じ志を持って見えない敵と戦う同志だったのだ。
そして、それは今も変わらない。
「トウカとの婚約はどうするの?」
「トウカの父親から破棄された。血も涙もない冷血漢には嫁がせないとさ」
「あらま、評価がダダ下がりじゃないの。タンガのご両親は承諾されたの?」
「承諾も何も、そもそも口約束だけで結ばれた婚約だ。俺は自分が選んだ人でないと婚約しないと言い置いてきたよ。また同じようなことをするなら絶縁も視野に入れる」
そう、賢者である前にタンガは成人した男性だ。
愛する人を自分で選ぶ権利くらいはある。
視線の合った彼は、ほんの少しだけ瞳を揺らす。
「今、二人だけで話せないか?」
「……ええ、いいわよ」
アレク様に目線で確認すると嫌な顔をしながらも許可されたので、少し離れた場所でタンガの隣に並ぶ。
早朝から動き出したというのに、もう陽は傾いていて木々の隙間から夕焼けが見えた。
顔を見合わせて、微笑む。
緊張が解けて、かつてのように穏やかな空気が流れていた。
「こうして二人が並ぶのは久しぶりね」
「そうだね」
彼は歴代の賢者だけが纏うことを許されていたローブを身につけていた。
紫紺に銀糸で刺繍がされていて、タンガの知的で落ち着いた雰囲気に合う。
ただところどころに経年劣化と思われるほつれがあって、傷みがあるのは気になった。
「今着ている賢者のローブ、ずいぶんと古いもののようね……ってあら、ちょっと見せて?」
「いいけど?」
タンガが脱いだローブを手渡してくれた。
ああ、やっぱり……見間違いなどではなかった。
賢者のローブには刺繍だけでなく、守護、修復と清浄の術式が織り込まれていたのだ。
守護の術式により他人の攻撃から着用者の身を守り、修復と清浄の術式によってローブを格調高く清潔に保つ。
修復と清浄の術式は貴族の装いにも使われる汎用性の高いものだが、術式そのものの難易度は高くない。
それに対して守護の術式を織り込むのは、相当に難易度が高いとされていた。
たいした技術力ね。
相当熟練度の高い青精霊師から銀精霊師の適正がなければこれは作れない。
皮肉なことに、賢者のローブこそが、かつて翼人の国に高度な精霊術の知識が存在していたという証拠であった。
それを知っていて捨てられなかったのか、知らなかったおかげで残されたのか。
精霊術の知識を自ら消し去った賢者が術式を織り込んだローブを身に纏うなんて、なんとも罪深いことだ。
ハンナはひっそりとため息をついて……力を注ぎ、術式を起動した。
一瞬にしてローブが艶と輝きを取り戻し、ほつれた部分は修復されて新品同様になる。
タンガだけでなく、その場にいる者はそれぞれに驚きの表情を浮かべた。
「修復と清浄の術式が織り込まれていたから起動させたわ。こういう儀礼服は素材が良いぶん、洗濯するほど生地が痛みやすいから、こういう術式を製作時に織り込んでおいて、汚れたと思うときに精霊術で綺麗にするのが地上では一般的だそうよ」
「術式を、織り込んで? このローブには精霊術が……!」
「ええ、それと守護の術式もね。他者の攻撃から着用者を守るの。こちらは精密で専門性の高い術式とされているから、過去には腕のいい精霊師がいたという証拠にもなるわ」
変に隠すよりもと、事実を事実として包み隠さず伝えた。
世の中は、綺麗事ばかりじゃない。
この場は誤魔化したとしても、彼ならふとしたきっかけで真実にたどり着くだろう。
だってタンガは賢者になったのだ、こういう不都合な真実を糧とできなければ、賢者と呼ばれるには程遠い。
返されたローブを握りしめて、タンガは泣きそうな表情でそれを見つめている。
「今の君は、なんでもできるのだね」
「そんなことはないわ、できないこともあるもの。でも、できることが増えたのは確かね」
ささやかな進歩かもしれない。
でもそれは、翼人の国では決して叶わない夢だった。
タンガは、一瞬開こうとした口を閉じた。
沈黙が場を支配する。
思わぬところに、自分が求めていた活用法があったことを嘆いているのか。
言葉にしないから、タンガの心模様は彼にしかわからない。
ただ落ち込んでいることくらいは私にだってわかる。
そして下手な同情は彼を余計に追い詰めるということも。
「織り込まれた術式は体内に満ちる力を注ぐことで起動し、効果を発揮するものよ。あの擦り切れ具合からして、かなり昔から使われたことがないということになるわね。ただ術式自体は今回正しく起動したから損傷はないようだし、今後も体内に満ちる力を注げばいつでも修復できるわ」
アレク様や兵士の皆さんが微妙な顔をしている。
あえて傷を抉りにいくなって?
だって、相手にとっては不都合でも事実だもの。
私はレンカでもあり、今はハンナでもあるけれど、白精霊師でもあるのだ。
賢者で大切な幼なじみのタンガに、誤った精霊術の知識を伝えることは私の矜持が許さない。
彼の口元が、ふっと綻んだ。
「容赦ないな」
「手を抜いて欲しかったの?」
「いや、全然。あの日、どうしてレンカが俺を拒絶したのか、君の気持ちがわかった気がする」
タンガが私をレンカと呼んだ。
あの日の夕闇の奥へと、気持ちがぐんぐんと引き戻される。
「だって同情を愛とは呼べないもの」
「そうだね、こういうときの優しさは傲慢に思えることもある」
タンガは受け取ったローブを羽織って、見上げるように立つ私と視線を合わせた。
子供のころは私のほうが少しだけ高かった背丈も、彼が成長期になったと同時に軽々と追い越されてしまった。
……置いて行かれたようで、子供心に寂しいと思ったのよね。
そんなまっさらな時代もあったのだ。
なんの疑いもなく無邪気にタンガだけを見つめていたころ。
覗き込めるほど近くにある、自分と同じ色をした闇色の瞳が瞬いた。
「今度は間違えない……俺は君を愛している」
真実の声がした。
それが心からのものだというのは、心に響く深さによってわかる。
悲しいくらい、心に刺さった。
「でも私は、あなたの望むような役立たずではいられないわ」
「あのときの愚かな俺は、君を侮って守るべき存在だと思い込んでいた。君の全てをわかったつもりになっていたのだろうな……君は守られるだけの存在ではなかったというのに、理解するという努力を怠っていた。今はとても深く反省している」
「それでも、私でいいの?」
「どんな君でもいい。もし許されるのならば、心も体も、君の全てを取り戻したい。」
幼なじみで、唯一の庇護者で……。
この告白がもしあの日のものだったら、どうしただろう?
揺れて揺れて、どうしようもなく愛しくて。
針のむしろだとわかっていても彼を選んでしまったかもしれない。
差し出された手に迷いはなかった。
視線はどこまでも真摯で、そのくせ滾るような熱を帯びている。
「レンカ、賢者となった俺を隣で支えてくれないか?」




