救いのない結末だ
知りもしないくせに、のんびりと遊んでいたとはね。
タンガはトウカの父が吐き捨てた台詞を聞いて一気に脱力した。
限られた時間の中、どれだけ必死になって知識を集めてきたのか彼らは想像もしていないのだろう。
賢者様が下界から戻られて、百年が経っている。
百年も経てば、情報も知識も比べ物にならないほど進歩しているというのに。
だからタンガと賢者候補は分担して、必死に百年分の知識を詰め込んできたのだ。
それなのに全く知識も生活基盤もない土地に行って遊んで暮らしたと思われていたとは……翼人至上主義の彼らにとって翼人以外は価値がないことをあらためて思い知らされるには十分だった。
悲しい気持ちで、タンガは天を仰いだ。
時折ハンナが浮かべる諦めたような仄暗い瞳の持つ意味がわかった気がする。
もういいかな、遠回しに言わなくても。
「それならなぜ害獣が増えたかわかりますか? 当然、賢者様の指示で調べましたよね?」
「当然だ、だが理由はわからなかった」
「害獣が頻繁に襲ってくるようになったのは、結界が消失したからですよ」
「結界だと? 何だそれは?」
タンガは、地上で学んだ知識を話した。
いかにして結界を張ったか、そしてどのようにして結界を維持するか。
もとが優秀な人達だけに、こういうところは飲み込みが早かった。
「加護と、結界……、信じられん、そんなことが……」
「信じなくてもかまいません。信じようが信じまいが失ったものを再現することはできませんから。ただ蝶の翅を持つ者がいたときも害獣は姿を現しましたが今とは比べものにならなかった、それが証拠です」
今思うと、レンカが成人を迎えるころから国の近くに害獣は姿を現すようになっていた。
翼人の国の結界は、意味なく行われる転居の繰り返しで媒体に注がれる力が偏っているのかもしれない。
破格の力を持つレンカが調整弁を担っていたから、そんな不安定な状況でもなんとかなっていたが、もし結界を維持できるギリギリの状態だったとしたらどうなるだろう?
調整弁であるレンカが別の場所に転居することで、さらに傾きが強くなる。
結界は、間違いなく崩壊するだろう。
ゆるやかに消えていくのではなく、一気に崩れ去る。
備えのない状態で結界が失われれば……被害は、この程度ではすまない。
あれは調整弁である彼女の転居が行われることを危惧した太古の神々からの警告ではないだろうか?
知識を得た今は、そうとしか思えなかった。
「翼人の国に猶予は残されていません。とうとう狒々まで姿を見せましたからね。狒々は翼人の国が荒廃したときに姿を現す、と神々は警告された。今の皆さんなら、荒廃するという言葉の意味がわかりますよね?」
無言で下を向いたままの両親や親族に語りかける。
それに最も警戒すべき狒々が一匹とは限らない。
二匹目がいたらどうするのかと畳み掛ければ、鴉の羽を持つ者は震え上がった。
タンガの父が予想通りの台詞を口にする。
「も、もう一度結界を張り直すことはできないのか?」
「この国を囲う結界術式を起動するためには、想像を遥かに超えた量の体内に満ちる力が必要とされるそうです。人間ごときが寄り集まったとしても全く足りないそうですから無理でしょう」
「人間では足りない……では、まさか結界を張られたのは……」
「太古の神々は、さぞお怒りでしょうね」
せっかく神々が結んだ結界を加護もろとも破棄したのだ、到底許されるものではない。
「……」
「蝶の翅を持つ者に対するしきたりを作ったのは賢者です。本来であれば翼人の国に調和をもたらすべき我々が、蝶の翅を持つ者が虐げられる素地を作ってしまった。その素地が結界の消失を招いたのだとすれば、我々の罪は重い」
鴉の羽を持つ者は顔色を悪くする。
至るところから、知らなかったのだと許しを乞う祈りの声が聞こえた。
それを聞いたルオが、一層厳しい表情を浮かべる。
「レンカさん……、いいえ、今はハンナさんですね。彼女から皆さんに伝言を預かっています」
「伝言?」
「あなたたちの立場で知らなかったとは言わせません、だそうです」
「……!」
「当たり前ですよね、賢者を輩出する鴉は翼人の国の頭脳であり、知識そのものです。神々の祭事を執り行う義務も持ち、与えられた役割を果たす見返りとして共同体でも優遇されてきました。それこそ、蝶の翅を持つ者の何倍も……いいえ最近では何十倍もの利益を享受してきたのです。そんな我々が知らなかったで済むと思いますか? 神々の行った奇蹟を語り継ぐ立場にいる者が神々の威光を失念していたから罪はないと神の前で胸を張って言えるのですか?」
全てを知っていたのに蝶の翅を持つ者を手放した、神々はそう考えるだろう。
利益を享受しているのだ、義務が生ずるのは当然。
義務を果たさないまま翼人の国にいたらどうなるか、彼らは蝶の翅を持つ者を通じてよく知っている。
役立たずと呼ばれるのだ、かつて彼らを揶揄したように。
鴉は皆、顔色を悪くする。
彼らの表情を見て、タンガはゆるく首を振った。
「それだけでなく、もし力を貸すと言われても結界を張り直すのは諦めたほうがよいでしょう」
「それはどういう意味だ?」」
「全体の仕組みが解明されたからこそ、何が重要なのかわかる。ここまで言えば理解できますよね?」
結界の要とは、裏を返せば弱点となる。
だから結界の情報は秘匿されているのだ。
翼人の国から精霊術の知識が失われたせいで、外部の人間に教えを乞わねばならなかった。
翼人以外の人間に結界の存在と維持するためには何が必要なのかを知られてしまったことに他ならない。
タンガがノックス教授に情報を全て伝えることをためらっていたのは、この点が気がかりだったから。
良識あるノックス教授は秘匿してくれたとしても、今後結界の存在に気がつく人間が良い人だとは限らない。
悪用されれば結界が解かれるのも時間の問題。
そして実際に結界のない翼人の国はこんなにも脆かった。
「とはいえ全てを知ったときには、もう遅かったというのが残念でなりません」
辛うじて残されていただろう結界も、おそらく消失している。
翼人の国が荒廃すると姿を現すという、ある意味で最強の敵である狒々が結界に弾かれなかった時点で効果がないと思ったほうがいい。
さすがに疑い深いとされる鴉も、狒々の出現という痛いところを突かれ誰もが反論もなく黙り込む。
最終的にタンガの父が重い口を開いた。
「仕方ない、今後について話し合おう」
タンガは、それまで張り詰められていた空気が弛緩するのを感じた。
彼らは皆、完全に諦めた者の顔をしている。
天秤が国を捨てる方向へと傾いたか。
鴉は雀の羽を持つ者と違い、そういうところは切り替えが早くてよかった。
ようやく鴉の羽を持つ者との交渉に目処がついたと、賢者候補達は深くため息をつく。
ところがトウカの父だけは……わなわなと体を震わせて怒鳴り声をあげた。
「私は認めませんよ! あんな無礼で欲深い蝶によって翼人の国が保たれていたなんて冗談にも程がある。皆だって常々笑いながら、そう言っていたじゃありませんか! 蝶の翅を持つ者は何もできないから役立たずなのだと!」
「ですが全てが失われつつある今、これから良くなるということはありません。今よりももっと状況はもっと悪くなるでしょう。そろそろ現実から逃避されるのは終わりにしませんか?」
タンガは静かな語り口でトウカの父を諭した。
だが彼は激昂するばかりで聞く耳を持たない。
「うるさい、私はそんな嘘には騙されないぞ! 蝶の翅を持つ者が神々の与えた一匙の恩恵だというのなら、なぜ私たちはアレらに裏切られたのだ⁉︎ 翼人を騙すなど神の恩恵の名が聞いて呆れる、蝶の翅を持つ者が神に愛されているからといって我々を傷つけても許されるならば、神の敷いた結界や加護など、なくなっても結構だ!」
「な、なんだって⁉︎ 神をないがしろにするなど、不敬であるぞ!」
「うるさい! これだけ鴉が寄り集まっているのにトウカの怪我を心配した奴など誰もいなかったじゃないか! どうせ怪我して早々に娘を見限ったのだろう⁉︎ タンガ、望みどおりに婚約をこっちから破棄してやろう! 血も涙もない冷血漢のおまえなんかに、私たち夫婦の大切な宝物を渡すものか!」
「誰とレンカを混同しているのかわかりませんが、彼女は裏切られたことはあっても、あなた達を裏切ったことなど一度もありませんでしたよ? お人好しが過ぎると思うくらいに、家族から冷遇されても尽くすような優しい人でしたから」
いくら治療するためとはいえ、馬鹿がつくほどお人好しでなくては、わざわざ追い出された元実家へ出向く理由なんてないじゃないか。
本当のところ、ハンナには別の目的があったのだけれどタンガは知らされていない。
だが、知らされていたとしても不思議に思っただろう。
復讐をしたいのならあえて治療も何もせず、ただ放っておけばいいだけのことだ。
トウカを失えば自分を疎んだ家族は文字通り崩壊する。
彼女の両親は勝手に傷ついて、勝手に朽ちていくに違いない。
勝手に朽ちさせておけばいいものをと、タンガは口惜しく思う。
助力を拒まれても仕方のないくらい、レンカであったころのハンナの扱いは酷かったのだから。
それなのに、この男はどこまでも彼女を認めない気らしい。
彼女は血の繋がった娘じゃないか。
その証を、タンガはこの場であえて口にする。
「彼女はトウカ嬢のように愛嬌があるわけではありません。ですが気丈で優しく、気を許した相手には甘いところもある不器用な女性です。それにとても努力家で……そう、容姿の特徴だけでなく性格もあなたによく似ているとは思いませんか?」
「!」
血は争えないもの。
翅さえなければレンカは父親にそっくりだった。
タンガは彼に手を伸ばした。
「これが最後の機会となるかもしれません。父親と娘として向き合ってみてはいかがですか?」
今までもこの父親に言葉を尽くして促してきたのにと、タンガは寂しい気持ちで微笑んだ。
蝶の翅を持とうとも、彼女はこの男の娘だ。
頑なに受け入れようとはしなかったけれど、間違いなく彼の血を引いている。
今更どうにもならぬことと、熱を逃すようにタンガは深く息を吐いた。
トウカの父親は、あからさまにうろたえる。
本当は彼自身も気がついているのだろう。
気がついていて……でも目を背けた。
「……うるさい、うるさい! そんなはずはない、アレが私に似ているだと? 不愉快だ、私が蝶の翅を持つ者に似ていてたまるか! あんな裏切り者……おまえだってレンカに遊ばれて捨てられただろう⁉︎ それでもアレを愛するとは、愚かなことだな! せいぜい尽くして弄ばれて、死ぬほど辛い気持ちを味わってみればいい!」
救いのない結末だ。
トウカの父の脳裏に蘇っているのは、この後に及んでもまだ娘であるレンカの姿ではなかった。
結婚して子供までいるのに忘れられないなんて、今でもかの女性に囚われていると公言しているようなものだ。
彼が心から愛した女性は別の男性と結婚したあと、事故に遭って亡くなったらしい。
相手が死してもなお、囚われ続ける。
……同じ状況になったとき、自分は忘れることができるのだろうか?
この制御できない愛という感情を、はじめて恐ろしいと感じた。
トウカの父は差し伸べられた手を弾き、拒絶するように鴉の羽を翻して飛び立つ。
タンガの脳裏には、夕闇に舞う柔い蝶の翅がよみがえっていた。
なんというか、そういう頑ななところもまた父親と娘はよく似ていた。
似ているからこそ、すれ違うのだろうな。
空に溶けていく背中を見送っていたタンガは深くため息をついた。
生命を失っていく国土を、ぐるりと見渡す。
ここまでよく保ったと思うべきか。
少しずつ歪んでしまった翼人の国は、まもなく崩壊のときを迎える。




