皆さん、現実を見てください
タンガには越えなくてはならない壁があった。
今、彼の目の前に、厳しい表情を浮かべた父親が立っている。
かつて賢者候補に選ばれて、次期賢者と目されていたほど優秀な人だった。
その夢は母と結婚するために諦めたと聞いている。
だから自分の夢を追うようにタンガが賢者候補に選ばれて、一番喜んだのは父だ。
厳しくも愛情深く育ててもらったという自覚もある。
だからこそ、越えなくてはならない。
「おまえは自分が何をやっているのか、わかっているのか?」
「ええ、わかっています」
「おまえがやろうとしていることは、翼人の国を終わらせようとしているのだぞ?」
「はい、場合によってはそうなるでしょう」
「愚かな、この国がなくなったら翼人は生きてはいけないというのに!」
心底失望したという顔で父が呻く。
……この父でさえもか。
周囲の同調する空気に、一抹のやるせなさを感じる。
頑なな態度はこの国しか知らないないからだ、その一言で片づく。
そして彼らの怒りは不安の裏返しでもあるということもわかっているつもりだ。
『このときのために努力してきたのでしょう? 彼らにあなたの価値を知らしめてやりなさいな』
戦友として、それができる人だと信じている。
そう呟いたレンカの……いいや、ハンナの期待を裏切るわけにはいかない。
離れる直前、軽く握られた手の温もりを思い出す。
あの手を、もう一度取り戻したいのだ。
「誰が、翼人の国でしか翼人は暮らせないと教えてくれましたか?」
「私達が小さいころ、当時の賢者様が教えてくれたのだ」
「そのまえも、それからそのまえの賢者様もそう教えていたと聞いているぞ」
次々と父の言葉に同意する声があがる。
自分よりも歳上なのに、彼らはまるで幼子のようだ。
意図的に歪められた知識を植え付けられ、狭い世界の価値観を正義だと教えられて育った賢い子供達。
彼らはとても従順で、どこか不安定だ。
だから子供へと言い聞かせるように、タンガは柔らかい顔と優しく響くような言葉を選ぶ。
「では亡くなられた賢者様はどうでしたか?」
「……それは、あの方は言っていなかったが今は関係ないだろう?」
「いえ、関係ありますよ。私は亡くなられた賢者様の指示で動いていたのですから」
「賢者様の、だと?」
「ええ。生前の賢者様に頼まれたものを、私が預かっています」
配りますね、そう言ってタンガは懐から封書を取り出した。
手配に力を貸したルオも、他の賢者候補達もだ。
彼らが握る全てを合わせると一つではない、二十通を軽く超える。
自分宛ての封書に書かれた差出人を見て、皆が呆然と目を見開いた。
「息子からだ……」
「私のは従兄弟からだ……亡くなったものだとばかり」
「ああ、どうして……兄からよ、今までずっと心配していたのに!」
見慣れた文字が綴る、親しい者の名。
誰がこの封書を出したのかなんて疑う余地もないのだろう。
差出人は、かつて賢者候補として下界に降り戻ってこなかった者達からだ。
下界に降りた賢者候補達はさまざまな理由で賢者となることを断念せざるを得なかった。
答えを得られなかった者、体調を崩していたり病に侵されて規定の三年以内に戻れなかった者。
そして、賢者となるための試練の答えを得ていながら、あえて戻らなかった者もいる。
「そこには今の彼らの暮らしぶりと彼らの願いが綴られています」
今はまだ賢者ではないタンガの言葉の価値は低い。
だが親しいものからの言葉であれば、もしかしたら聞く耳を持つのではないか。
賢者様は今のような混沌とした状況も見越して、タンガに託した。
そして賢者の遺志に沿うようタンガや賢者候補達は動いている。
わずかなざわめきの中、彼らは無言のまま封書を読み進めた。
「……信じられん」
最古参の者が、ぽつりとつぶやいた。
彼の手元には弟が記した封書が握られている。
「下界に降りた賢者候補によって翼人のための居住区が作られていたとは」
「本当ですよ。実際に私はそこへ行って、この手紙を受け取ってきたのですから」
老人の震える手に、そっと自分の手を添える。
この老人の弟は戻らないことを選択した者のうち一人だった。
歴代賢者を務めた者の志は一つ。
知識で国を豊かにすることだ。
文化を持ち帰る者、技術を持ち帰る者、食糧となる種子や果樹を持ち帰る者。
賢者はさまざまな恩恵を翼人の国にもたらした。
だからこそ、大切にされて、崇められるのだ。
それなのに下界へ降りて戻ってこない賢者候補が増えていったのはなぜか?
彼らは物質ともに劣るはずの下界と、神の創造した翼人の国の豊かさが逆転していることに気がついたからだ。
下界には精霊術と体内に満ちる力という翼人の国にはない優位性を持っている。
翼がない代わりに、彼らは努力と研究を重ねて、今や空を飛ぶ力まで手に入れた。
ところが翼人の国は翼を誇りに思うあまり、今以上の向上は望めず技術力と精神の両面でむしろ退化している。
賢者候補達は突きつけられた現実に呆然とすると、広がり続ける差に焦りを覚えた。
下界では救える命が、翼人の国では救えない。
下界では容易に手に入る道具が翼人の国では作れない。
それどころか羽さえ隠せば翼人でもあっさりと下界に馴染むことができるという真実を知ってしまった。
今までの賢者様の教えはなんだったのだろう?
まるでしきたりや教えで必死に翼人を国へと縛りつけているみたいだ。
権力を握るため自分にとって都合いのいい教育を施しているからこそ、賢者は賢者でいられる。
そのことを知った賢者候補達は徐々に情熱が冷めていった。
地上の書物で知識を学び、教えを乞うて地上の技術を吸収する、そのたびに違和感はさらに増す。
翼人は、本当に幸せなのだろうか?
現実を知るほど、賢者候補達は虚構の豊かさに満足する翼人の国とそれを維持する賢者の仕組みに失望する。
そして、ついに決意した。
翼人を、翼人の国から解き放つことを。
賢者候補は皆若い、だが愚かではないのだ。
何が最善かと考えて、いざというときのための選択肢を用意した。
最初は一人であった賢者候補がその共感して二人になり、三人に増えて。
そこからは意図的に声をかけて仲間となる賢者候補を増やしていった。
そしていつか翼人の国が立ち行かなくなったときのために、受け皿となる居住地を王都に作り上げたのだ。
やがて地上に馴染んだ翼人にも出会いがあり、普通の人間と結婚して子が生まれて。
羽などなくとも人として暮らしていくことができることを自ら証明した。
「こうして増えていった鴉の羽を持つ者の子孫は今でも地上で息災に暮らしています。地上の人間との間に生まれた子の背中には翼がありませんが、我々とは反対に体内に満ちる力を持っています。精霊術が使えるので、羽はなくとも日常生活に支障はありません……翼人の国を捨てても、あなた達の居場所は用意してある」
タンガは、静かに語り掛ける。
少しでも彼らの願いが届くようにと。
風の音すらよく聞こえるほど、場が静まり返る。
それでも簡単には受け入れられないだろう。
だって、羽はないということは……。
「我々に役立たずとなれということか?」
タンガの父が、怒りを抑えた口調でつぶやいた。
周囲の反応は、半々。
諦めと同時に未来へ希望を感じている者と、現状に甘んじて怒りを覚える者。
今の自分や取り巻く環境に満足している者ほど、怒りの振り幅が大きい。
「タ、タンガ! なんてことを言うのよ! 私達は、あなたが翼人の国の賢者になるように育てたのよ⁉︎」
たとえば、この母のように。
自分の理想を否定されたとして傷つき、相手に怒りを感じる。
それにしてもタンガを賢者になるように育てた、とはずいぶんと過信したものだ。
「私は自分の意志で賢者になることを選びました。……父さんの夢を叶えるためじゃない」
「タンガ……」
そう、翼人達のレンカに対する仕打ちを見て賢者になることを選んだ。
助けるわけでもなく恵まれた環境から静観するだけの両親に憧れるわけがない。
言葉に詰まった両親へ、さらに畳み掛ける。
「皆さん、現実を見てください」
タンガは手の先を岩盤の剥き出しとなった畑の残骸へと向ける。
「このような状況では、主食となる小麦はもう育ちません。今回収穫された小麦を食い尽くしたあとはどうするつもりですか? 山に生えている果樹も枯れているし、木の実のならない硬い木しか残っていませんよね? あれほど頻繁に姿を見せていた獲物となる小動物も作物の育たないこの環境ではここへ立ち寄ることもないでしょう。羽があっても、それだけでは食糧が得られないのです。糧となる作物や獲物がなければ羽だけがあっても生き抜くことはできないのです」
これが翼人の国の現実だ。
もし賢者様が生きているうちに精霊術の知識を得たタンガが戻ってきていたら、また違う道があったかも知れない。
この場に一人でも蝶の翅を持つ者が残っていたら、むしろこれからは大事にされただろう。
なぜ大切な精霊術の知識が失われ、高位の精霊師である蝶の翅を持つ者達が無能扱いされたのか。
タンガが居住区に住む、かつての賢者候補達に教えを乞うても、いつからなのかはわかる者はいなかった。
今も生きているのか、それとももうすでに亡くなっている誰かの仕業なのだろうか?
その誰かは、翼人の国から蝶の翅を持つ者に関する知識と功績を意図的に消した。
執拗に、念入りに、細心の注意を払って……一つ残らず消し去ったのだ。
だから賢者様が調べても蝶の翅を持つ者に関する記載も言い伝えすら残されていなかった。
この悪意に満ちた改竄のせいで、賢者のもたらす恩恵の輪から蝶の翅を持つ者だけが弾かれる。
賢者のせいで役立たずと呼ばれることが増えて、虐げられる者が増えていった。
なんと罪深いことを……。
だがもう、真実に気づいたところで全ては遅い。
全ての蝶は地上へと帰ってしまったのだから。
ひらり、ひらりと宵闇に舞う蝶の翅。
あれほど疎ましかった翅が、今は恋しい。
失ってはじめて、価値に気づくものもあるのだ。
鴉の羽を持つ者の顔に絶望が浮かぶ。
羽だけでは生き残れないという現実をようやく受け入れたのだろう。
説得できたか、安堵しかけたタンガの耳に場違いなほど華やいだ母の声がする。
「……そうよ、タンガはレンカと婚約したがっていたじゃないの! 婚約者なら、伴侶の手伝いをするのは当然よ? いいわ、二人の婚約を認めてあげましょう、ねえあなた?」
「そ、そうだな。こうなったら仕方がない、レンカとタンガの婚約を許そう! 一族の皆も異議はないな⁉︎」
意図を察した親族から賛同の声が上がる。
レンカとの婚約を最後まで反対し続けた彼らが、レンカを謗った同じ口で彼女を称賛する。
「これでもう、畑は元通りだな!」
暗く沈んでいた鴉の羽を持つ者の顔がパッと輝く。
無駄に頭の回る彼らは、レンカをタンガの婚約者と認めてやれば彼女が喜んで力を貸すとでも思っているらしい。
そしてレンカをこの国に繋ぎ止めたタンガの功績を他の鴉の羽を持つ者達も共有できる。
食糧を盾に、強引な態度を取り続ける管理者へ対抗する手段の一つとするつもりなのだ。
タンガは深くため息をつく。
彼らの浅はかな思考が手に取るようにわかる自分の血が恨めしい。
それだけじゃない、彼女との婚約を嫌って勝手にトウカとの婚約を結び、役に立ちそうだとわかった途端にレンカとの婚約を認めるなんて。
なんという節操のなさ、誠実さのカケラもないじゃないか。
「あなた達が勝手に認めたトウカはどうするつもりなのです?」
「タンガが嫌だというなら、しょうがないでしょう? それを理由にお断りしましょう。それに薬師が言っていたけれど、トウカは治る見込みのないひどい怪我を負ったそうよ? 婚約の続行は難しいだろうから、婚約はこちらが何もしなくとも解消されるでしょう。だからあなたは気に病むことはないのよ」
役に立ちそうだから婚約したのに、ガッカリだわ。
そう呟いた母の黒くつぶらな瞳は、欠片も罪悪感を感じさせなかった。
タンガの背筋を悪寒が走る。
まるで本物の鴉のようじゃないか、貪るように獲物を漁り、満足したらためらいもなく捨て去る。
「これが真に賢い者のとる対応だと思うか?」
「そうだね、むしろずる賢いというのだろう」
悩ましげに目頭を抑えたタンガの肩をルオが軽く叩く。
鴉の羽を持つ者の思考と行動の基本にあるのは、あくなき生への欲求。
原始的な環境でのみ育った彼らに善や悪などの概念は元より存在しないのだ。
翼人は下界に降り、人々の営みから社会というものを知って、ようやく善悪の概念と広い視野を持つことができる。
だから同じ鴉であっても下界から戻った者だけが賢者となれるのだと、タンガは思い知らされた。
ルオは皮肉げに唇の端を歪める。
「これが鴉の本性だ、それを従えるために君がいるのだろう?」
「まあそうだな、いまさらだ」
タンガの潔癖さを知るルオはくすりと笑う。
彼に対しては、この上なく悪手なのにね。
誠実であることを止めた人物の言葉を助言とは呼べない。
地上でレンカを取り巻く人々の誠実さを知ったタンガには、彼らの助言が底の浅い悪知恵にしか見えないのだ。
「いいえ、結構です。彼女との婚約を認めていただかなくても」
「は、どうして……」
「あなた達は勘違いしています。翼人であることをやめた彼女は、伴侶を自分で選ぶことのできる立場になったのです」
「そんなバカな、彼女に選ぶ権利だと⁉︎」
「ええ。地上での彼女は、ワルシャリア王国唯一の白精霊師です。彼女が望めば貴族の一員にだってなれるでしょう。羽の種類に関係なく、彼女自身の価値だけで引く手あまたなのです、ですから」
「そんなわがままが、あの子に許されるわけはないでしょう!」
タンガの言葉を遮るように背後から声が響いた。
憎悪に満ちた視線の先にいるのは……レンカとトウカの父親だった。




