28 囚われの姫と秘密の王子
エピカはとても小さな世界で生きてきた。
世界の片隅で埃をかぶったような村の、古いだけが取り柄の神殿。
ネムコ一族の娘たちは宿命を背負っていた。先祖代々受け継いできた始祖姫宮の血の器であり、崇め敬愛される代償に民たちに慈悲の恵みを与えること。
主蟲は決して従順ではない。
使役し、働かせた分だけ、文字通り身を削って褒美を与えなければならない。
例えば大きな災害が起こったとき、命がけで村を守るよう契約した主蟲に姫宮が依頼しなければならない。ただの蟲客の血ではそのような強力な命令は発せられないのだ。姫宮の血があってこそ、蟲客の村は存続できる。
姫宮は蟲客の中では絶対の存在だが、ときにその身を捧げ、一族と村のために犠牲とならねばならなかった。
エピカの母がそうだ。
二人の娘を出産し、年齢を重ねて血が熟成されてきた頃、村を襲った干ばつを何とかするため、その命を捧げて主蟲たちに決死の雨乞いをした。
村は潤いを取り戻したが、引き換えにエピカは母を失った。当時五歳だったエピカは悲しみこそしたが、疑問は抱かなかった。村のために命を捧げるのは姫宮の務めだと教え込まれてきたからだ。
やがて七つ上の姉・エルゼアがネムコ一族の代表として姫宮の位についた。
賢く美しく、そして優しい。大好きな姉だった。
エルゼアは困っている人を誰一人見捨てなかった。
どんなに緊迫した空気も柔和させ、不和を解消した。
体調が優れないときでも自分を看病する者を気遣い、可憐に微笑んで見せた。
家族はもちろん村中から愛され、他の村にも才色兼備の完璧な姫宮と評判だった。もちろんエピカにとっても自慢の姉だ。
大好きな姉の下、姫宮として重責を負うことなく、エピカは八歳まで幸せに暮した。
エルゼアを野生の主蟲に食い殺されてからだ。エピカの小さな世界が、血と悲鳴に満ちた地獄に変わったのは。
主蟲たちがエルゼアの契約違反に怒り、一斉に村を襲った。
父は殺され、親戚も失い、ネムコの正統な姫宮で生き残ったのはエピカだけだった。
それまで敬ってくれた村人は手の平を返したように幼いエピカをぞんざいに扱った。
――姉の不始末の責任を取れ。
――村を立て直すために血を差し出せ。
エピカは神殿の地下の錆び臭い牢に繋がれ、血を搾取され続けた。
主蟲を召喚することはできなかった。村を襲う主蟲たちが恐ろしく、また、幼いエピカは訓練が不十分だった。蝶神との契約は引き継がれているが、扱い方がまるで分からない。
小さくも美しい世界は、矮小で醜い虫籠に変貌した。
外で起こっていることは何一つ分からず、毎日死と向き合う生活。
初めはエルゼアの死を悼み、自分の身を憐れんでいたが、徐々に何もかもを憎むようになった。
――どうして私が何もかもを引き受けないといけないの?
不条理だった。理不尽だった。何よりも、何もできない自分が許せなかった。
しかし牢で何年も過ごすうちに心は死んだ。限界まで血を失うと何も考えられなくなった。
十四歳になっても月のものが来ず、次の姫宮を生むための子作りを強いられなかったのがせめての救いだろう。
実に六年もの間囚われていたエピカを牢から解き放ったのは、隣空人について研究している人類の男だった。村人たちはエピカの血液を流通させて財を成していたらしい。その血の一部が隣空人排斥組織に渡り、蟲客を装った犯罪事件を起こしもした。研究者の男が闇で流通するエピカの血を手に入れて不審に思い、ネムコの村を調べ、自らの研究のスポンサーのとある貴族に報告した。それが事の発覚を促した。
ある日目覚めると、エピカはジェイミー家の屋敷のベッドで横たわっていた。
夢だと思った。もしくは死んだと勘違いした。
しかしベッドは柔らかく、出てくる食事は温かく、現れた少年は優しかった。
「おはよう、蟲客のプリンセス。お会いできて光栄です」
それがルドとの出会いだった。
エピカは知らなかった。
自分がどれだけ小さな世界で震えていたのかを。
蟲客どれだけ哀れで惨めで、他の種族に蔑まれているのかを。
そして、果ても見えないほど広い世界にすら、自分の居場所はどこにもないことを。
「エピカにだけ教えてあげるね。僕は、この世界を創り変えたいと思っている」
ある日ルドに秘密を打ち明けられた。
「実は僕、ユニヲン王家の血を継いでいるんだよ。正統の王子さ。マリッタ王女殿下の双子の弟なんだ」
ルドは言う。
自分は生まれつき体が弱かった。もしも〈維新電神〉が次の王に女性を選んでも、その伴侶として務めを十分に果たせないと判断され、遠い親類であるジェイミー家に養子に出された。病弱の王子が国民に失望されることを恐れた親心だったのかもしれない。
「今の僕は健康そのものさ。それでももうユニヲン王家には戻れないし、戻りたいとも思わない。僕にはこの世界の底が見えた。下らなくてつまらない。だから、ひっくり返してやろうと思ってね」
悪戯っぽく笑い、ルドは手を差し出した。
「興味ない? エピカだってこんな世界は嫌でしょ? 僕は世界を覆す計算はできるけど、力はない。きみが手伝ってくれれば、とても楽しい世界を創れそうなんだ」
エピカは無意識にその手を握り返していた。
だって、ルドの言うことがとても魅力的だったから。
この世界でこのまま生きていく未来が想像できなかったから。
姫宮を失い、滅びかけている村の連中をさらに深い闇へと突き落してやりたかったから。
だからエピカはルドを盲信した。
今は世間知らずの蟲客の姫宮としてユニゾランドに足を踏み入れ、世界転覆の鍵となる少年と出会い、束の間の平穏を過ごしている。
しかし、その平穏も唐突に終わってしまった。
エピカはドラゴンの砕けた瞳の破片を浴び、リオウの過去の映像を観た。
映し出されたエルゼアの姿に胸が潰れた。
エルゼアはリオウを庇って死んだのだ。
おかしいとは思っていた。エルゼアには蝶神を含め何万もの主蟲がついている。野生の主蟲ごときに殺されるはずがない。
優しいエルゼアはリオウまで害されるのを恐れて、自分の主蟲を呼ばなかったに違いない。リオウを助けるために自らの肉体を卑しい主蟲に食い潰されたのだ。
リオウが憎むべき相手。姉の死の原因となりながら、エピカに真実を隠し、のうのうと生きている男だ。
しかし、湧き出てくる憎悪はほんの数粒だった。
そう、エピカはリオウを憎み切れずにいた。
なぜなのかは自分でも分からない。そもそもどうしてリオウをドラゴンから庇ったのかも定かではない。体が勝手に動いたのだ。エルゼアのことを知った今でも、助けたことをまるで後悔していない。不思議だった。
リオウのことを考えると名前のない不安定な感情が胸を占め、悲しい気持ちになる。
「何かあるなら相談してくれ。一人で抱え込むなよ。俺たち友達だろ?」
ミュータの優しい言葉にすがりつけたらどれだけいいだろう。だけど甘えるべきではない。いつか自分はミュータを傷つけるのだ。仮初の友達にすぎないのだから。
ルドに相談したいと思った。打ち明けて、全て知っていたのか問い質したかった。
しかし何度電話しても繋がらない。学園にも登校していないと知り、ますますエピカは追い詰められた。
あの日リオウは言った。ルドを信用するな。弄ばれていると。
過去に因縁あるリオウと引き合わせ、何も知らずに過ごすエピカを見て楽しんでいたのだろうか。不穏な考えが頭をよぎる。ルドがそんな幼稚な真似をするはずないと思いつつも、会えないことで不信感は募っていく。
もう限界だった。
トレヴィーがエルゼアの子守唄を奏でた瞬間、エピカの忍耐は尽きた。忘れていた歌の続きが耳の中でリフレインし、声を上げて泣きたくなる。
日が沈み、夜になった。ミュータの誕生日パーティーはまだ続いている。始まる前はそれなりに楽しんでいたがもはや余裕はない。エピカは胸に渦巻くものを吐き出すべく、彼の元へ向かった。
リオウはみんなの輪から外れ、ぼんやりと夜空を仰いでいた。エピカに気づいて眉根を寄せる。視線が交錯するだけでエピカは背中に嫌な汗をかいた。
「リオウ。話があるんだけど」
「……よりにもよって今か」
「ええ、今よ。今すぐに」
「分かった。裏へ行くぞ」
アパートの裏手にはリオウの小さな薬草園があった。ここ数週間、エピカが水やりや草刈りをして面倒を見ていた。花壇の縁に腰をかけ、リオウは目で話を促した。エピカは立ち尽くしたまま口を開く。
「あのドラゴンの魔性のせいだと思うけど、とても嫌な映像を見たわ」
リオウは鼻で笑った。
「なるほどな。あの日からお前とミュータの様子がおかしいと思った」
「笑い事じゃないわ。説明して。どうして……姉様は…………」
リオウの口から本当のことを聞きたかった。リオウは自分の拳を見つめる。
「もう七年も前になるな。オレとエルゼア・ネムコ、そして他十四人の子どもたちは過激な隣空人排斥組織
に誘拐された。組織の目的は子どもを惨殺して、隣空人の仕業に仕立て上げることだ。まぁ、エルゼアだけは別の目的で攫われたらしい。組織の幹部が蟲客を殊更憎んでいたようだから」
全て後から分かったことだ、とリオウは言う。
「道中で野生の主蟲に襲われ、オレ以外は全員死んだ。不思議なことに、エルゼアは主蟲を使って反撃しなかったな。それがなぜなのかはオレにもよく分からん」
「分からないって……姉様はあなたを助けたんでしょう。臨戦状態の主蟲は見境なく周りの者を襲うから……」
それくらい、リオウにだって分かるはずだ。
受け入れたくないのかもしれない。自分を庇ったせいでエルゼアが死に、ネムコ一族の村は半壊した。その責任を負うことから逃げている。だからエピカに今まで真実を隠していたのではないか。
だとしたら、ずるい。卑怯だ。……彼らしくない。
「オレのことが憎いか? 殺したいか?」
エピカは息を飲む。
普段の雄々しいリオウからは想像もできないほど穏やかな声だった。まるでこの日を待っていたようでエピカは寒気がした。
「殺されてくれるの? 私に?」
「まさか。主蟲に食い殺されるのも、女に刺されるのもごめんだ」
リオウは腰を上げ、はっきりと告げた。
「だが、誰の迷惑にもならない場所での殺し合いなら、いつでも受けてやる。正々堂々とした復讐ならオレは逃げない」
「…………」
言葉を紡ぐどころか、頷くこともできなかった。
リオウが去ってから、エピカはその場に膝をついた。頭も心も許容量はとっくにオーバーしていた。
自分に姉様が救った命を奪えるのか。
そもそも自分はリオウを憎んでいるのか。
殺したくないと思っているこの心はなんなのか。
だが、この苦しい気持ちを脱ぎ捨てるには復讐を果たすしか方法がないかもしれない。
「ミュータ……私は、どうすればいいの?」
思わず呟き漏れた言葉に心が決壊した。
今エピカが心の底から信頼し、全てを打ち明けたいと思うのはルドではなかった。
頬に一筋の涙をこぼし、エピカはその場でじっとうずくまった。




