60 予選一回戦 その5
一回裏の攻撃。ツーアウト、ランナーは一二塁。バッターボックスの中、打ち気満々でかまえているのは、八番セカンド藻岩一希ちゃん。
それは、ワンボールワンストライクからの三球目のことだった。
おそらくはシュートの投げ損ない。中途半端な打ち頃の速度のボールが内角に来たのを確認した一希ちゃんは、思いきり打ちにいった。左足を踏み込み、腕を畳んで腰をひねる。後ろから見てても美しいフォームだ。
しかし、ボールは彼女が想定したコースよりも、さらに内角をえぐる角度に曲がってきた。一希ちゃんの胸に向かって……。投げたボールが、ピッチャーが視線をむけた方向に無意識に吸い寄せられるというのは、確かにありそうな話だが。
きゃっ!
スイングの途中で、一希ちゃんが小さく悲鳴をあげた。そして、とっさに後ろにひっくりかえる。胸元をえぐるボールを、尻餅をついて避ける。
「一希ちゃん!!!」
味方でもっとも彼女の近くに居るのは、ネクストバッタズサークルの俺だ。おもわず駆け寄ろうとした俺だが、一希ちゃんがそれを手で制す。
「だ、だ、大丈夫。胸をほんの少しかすっただけだから」
一希ちゃんが自分の胸のあたりを確認している。確かに、ユニフォームの胸の部分に、ボールの跡がうっすらとついているような気がしないでもない。
俺も何度か経験があるが、硬式球をまともにぶつけられると洒落にならないくらい痛い。骨にあたれば骨折の可能性もある。首から上ならば、こないだの俺のように失明の危険性や、場合によっては命に関わることだってあるくらいだ。
たいしたことなければいいのだけど……。本人の様子を見る限り、問題なさそうだ。本当にユニフォームをわずかにかすっただけなのだろう。よかった。
尻餅をついた姿勢のまま、自分の胸のあたりを気にしている一希ちゃん。いま、彼女の胸に注目しているのは、俺と、一希ちゃん本人だけではない。死球であることを確認している主審も……、って、いい歳のおじさんが、女の子の胸元を上から身を乗り出して凝視している図って、なんか、……ちょっと、なあ。
ついでにキャッチャーと、そしてピッチャー。ピッチャーのメガネ君としては、おそらくボールをぶつけてしまった相手を心配しているのだろうけど……。
一希ちゃんが顔をあげた瞬間、主審も含めた周囲の男どもは、みんな反射的に、一斉に視線をそらした。やましい気持ちはないはずだが、女の子の胸を凝視していたという罪の意識がそうさせるのだろうか。
その瞬間になって、一希ちゃんやっとは気づいた。彼ら、いや、もしかしたら球場全体の男の視線が、自分の胸元に集中していたことに。
一希ちゃんは、本能的に両腕で胸元を隠す。真っ赤な顔で睨みつける相手は、ボールをぶつけたピッチャーだ。
えっ? 俺?
ピッチャーが、明らかに動揺している。
一希ちゃんが一塁にいっても、まだ顔が赤い。なんとなく球場全体の雰囲気も、女の子の胸にボールをぶつけたピッチャー非難するような、妙な感じだし。せっかく一度は立ち直りかけたのに、……同じピッチャーとして、敵ながら心配だぜ。
『九番、ピッチャー白石夢実さん』
次のバッターは俺だ。またまた大きく動揺している敵ピッチャーが気の毒ではあっても、バッターの立場としてはこのチャンスを逃す手はない。まさか一回の裏が終わる前に九番の俺の打順が回ってくるとは思わなかったが、ここは最大限利用させてもらおう。
俺は、チームでも一番短くて軽いバットを一回素振りすると、バッターボックスに向かう。審判に一礼して、ピッチャーを睨む。
ツーアウト満塁。得点差は三点。『白石夢実』の高校野球初安打、そして初打点のチャンスだ。
……いや、そんなことよりも、まずはこの試合だ。ここで大量点を取ることができれば、かなり楽になる。チームの勝利のために、打つぞ!
夢実の視線の先にいるピッチャーは、あきらかに狼狽している。
お、俺は、俺は、……た、確かに、彼女の胸にボールをぶつけたのは俺だ。悪いのは俺だが。だが、俺は、決して、彼女の胸を凝視していたわけではない、ぞ。
い、いや、確かに、確かに、ちょっとは見てしまったかもしれないが、……し、しかし、それは、ピッチャーがバッターに視線を向けるのは当たり前であって、しかも、内角に投げようとすれば、あの胸を無視することなどできるわけなくて、決してやましいエッチな感情からではなくて……。
なぜ言い訳してるのか。誰に対して言い訳してるのか。自分でもわからなくなってきた。
ボールをぶつけてしまった一塁ランナーが、そして敵チームのナインが、……いや、球場の観客全員が自分を責めているような気がする。何よりも、マネージャーがどんな顔をしているのか恐くて、自分のベンチを振り返る事ができない。
落ち着く間もなく、次のバッターが打席に立つ。また女の子。しかし、ピッチャーである彼女は、さっきの娘よりもはるかに胸は小さい。平らといってもいいくらいだ。その点だけは安心だが、だが女の子に向けて投げにくいのは同じだ。
初球。
ストレートが大きく外にはずれてしまった。くそ、どうして腕が思い通りに動かないんだ。キャッチャーが立ち上がってなんとか捕球して、ワンボール。
くそ、くそ、くそ。この娘は身長が低く過ぎるんだよ。ストライクゾーンが縦に狭すぎる。
ボールを返しながら、キャッチャーがなんども「抑えて」のポーズ。わかってる。わかってる。わかってるって!
うーーん。バッターボックスから見るとよーくわかる。ピッチャーまたしても完全にテンパってる。ふたたびストライクが入らなくなってきた。
それに、……こいつ、さっき俺の胸のあたりをみて、一希ちゃんと比べやがったな。女の子はな、自分にむけられたエッチな視線には敏感なんだぞ。なんて失礼な奴だ。絶対に天誅を下してやる。
ランナーは満塁。ピッチャーとしては、押し出しだけは避けたいはずだ。苦しまぎれにカウントを取りにくるに違いない。バッターが俺ならば、ストライクさえ入れば抑えられそうだ、なんて考えてるに違いない。
……ほら、思った通り。二球目は、恐らくもっともコントロールに自信があるスローカーブだ。しかも、ど真ん中にはいってくる。なんという打ち頃のボール。
カウントが悪くなるまでは振るな。
俺の理性はそういっている。しかし、身体が勝手に動く。十年以上野球やってきた脳味噌が、本能が、叫んでいる。このボールを逃す手はない!
タイミングをあわせて、左足をわずかに前に。腰の回転にあわせて、もともと寝かせ気味で構えたバットのヘッドをそのまま最短距離でボールめがけて振る。重心を軸足に残したまま、フルスイングだ!
あたった!
しかし、だめだ。本能は鍛えられていても、それにこの女の子の肉体がついていかない。力一杯スイングしたつもりが、バットに振り回された。かろうじてボールの上っ面をたたいただけだ。
くそ、くそ、くそ!
一塁線ぼてぼてのゴロ。浅めに守っていたファーストがダッシュで出てくる。そのすぐ横を、俺は走る。短い手足で必死に走る。
ファーストがボールを捕る。サードランナーが突っ込む。あたり損ねたのが幸いしたか、ランナーをホームで刺すのは無理だ。だが、俺ならば刺せると踏んだファーストは、とっさに振り向むく。あわててベースカバーに入ろうかというピッチャーにボールをトス。そしてボールを受けたピッチャーが走る。一塁ベースまで俺と競争だ。
俺の目にはベースしか見えない。あと一歩。しかしベースの直前、俺の視界の横からピッチャーが飛び込んで来きた。交錯。
俺と敵ピッチャーは、絡み合うようにベースの向こうに倒れ込んだ。正確に言えば、突っ込んできたピッチャーによって、俺の身体は吹き飛ばされたのだ。
身体が地面に落ちる。そのうえ上から、巨大な肉体が降ってくる。ピッチャーだ。
ぐえっ!
高校生男子の肉体に押しつぶされた形になったのだ。俺の息が一瞬とまる。が、しかし、それほど衝撃はない。ヘルメットをかぶっていたせいもある。そして、勢い余って吹き飛ばしてしまった俺の小さな身体を、彼なりに必死にかばってくれたのだろう。
まぶたを開くと、俺の頭のすぐ側、ほんの目の前に一塁塁審の足があった。俺は仰向けに倒れている。
審判を足元から見上げる。俺はベースを踏んだぞ! 踏んだはずだ。踏んだんじゃないかな。
この時、俺はどんな形相をしていたのだろう。判定は……。
セーフ!
やったぁ! 初ヒット。打点もついた!!
同時にタイムがかかり、試合が止められる。起き上がろうとして俺は気づいた。動けない。重い。いや、ケガをしたわけではない。
「あっ」
自分の胸のあたりに視線を移すと、ピッチャーの顔がある。彼も審判を凝視している。お互いに判定が気になるあまり今まで気づかなかったが、まだピッチャーの身体が俺の上に乗っかっているのだ。しかも、ちょうど俺の胸の上に顔を乗せていやがる。
ボールがストライクにさえ入れば抑えられるだろう。
そう思い投げたスローカーブは、思惑通りど真ん中に入っていった。
バッターが狙い澄ましてバットを振る。それは、想像通りのか弱いスイング。いや、スイングになっていない。本人は必死にやっているのだろうが、小さな身体がバットに振り回されている。なのに、……あたった?
一塁線、ぼてぼてのゴロが転がっている。一瞬、打ち取ったと思った。これでやっと一回裏が終わる。
しかし、……ファーストが必死にダッシュしてボールをとったとき、そのすぐ横を小さな身体のバッターが駆け抜ける。その先、サードランナーがすでにホームインしているのが見える。
くそっ! 当たり損ねが幸いしたか。絶妙なぼてぼてだ。
ファーストが振りかえり、こちらにむけてボールをトス。あわててグローブを差し出す。ボールを捕球したことを確認して、一塁ベースに向けて走る。走る。走る。バッターと競争だ。
視界の端に、こちらに向けて全力疾走する小さなバッターが見える。足は遅いが必死で真剣な表情、前だけを見つめるひたむきな視線、……見とれた。そして、ベースに足を取られる。彼女を避けられるはずもなく、そのまま絡み合うように倒れ込んだ。
むにゅ
気がついたら、地面に倒れていた。柔らかいものが下にある。
なんだ?
吹っ飛んだ瞬間、反射的に彼女を抱きかかえた。地面にたたきつけられる瞬間、自分の体重がかからぬよう、目の前の小さな身体をかばったはずだ。
おそるおそる顔をあげると、見上げたすぐ前にお人形のような顔がある。……と言うことは、俺の顔は、彼女の胸の上に……。
「うわぁ! ご、ごめん」
顔を真っ赤にした男が、おかしな悲鳴をあげ、急いで俺から飛び離れた。まるでカエルが飛び跳ねるように。
お、おまえ、人の胸に顔をうずめておいて、なんだその悲鳴は? ……いや、正確に言えば、うずめるほどの胸はないかもしれないが、それにしたって失礼な奴だな。
俺もとっさに上半身を起こし、反射的に両腕で自分の胸を隠す。自分でそうしようと思ったわけではない。まったく意識しないまま、勝手に身体がそう動いたのだ。さっきの一希ちゃんのように。
……あれれ? 俺、こんなに乙女だったかなぁ。
「大丈夫かい?」
一塁塁審が俺に手を貸してくれた。
「はっ、はい!」
俺はゆっくりと立ち上がる。そして手足を確認。うん、特に痛いところはない。とっさにかばってくれたピッチャーの彼のおかげか。……胸に顔をうずめられてしまったけどな。
「夢実ちゃん!!」
すぐそばのベンチから、監督が駆け寄ってきた。本当はダメなのかもしれないが、短時間なら話しても審判は黙認してくれそうだ。
「本当に大丈夫?」
「あー、平気平気。彼もかばってくれたみたいだし」
「ならいいけどぉ、……うふふ」
意味ありげな微笑み。なんだ?
「……あのメガネのピッチャー君、藻岩さんへのデットボールと夢実ちゃんへのセクハラタックルで、ますます動揺しちゃったみたいねぇ。顔真っ赤よ。もしかして、夢実ちゃんに抱きついた感触がよっぽど気持ちよかったのかしらぁ」
ばばばバカな事いうなぁ。……でも、俺も男だった時にあんなことになったら、きっと動揺するだろうなぁ。
「とにかく、これはチャンスよ。このまま一気に大量点をとっちゃいましょ。コールド勝ちできるくらい」
えええ? それは、なんか、敵の純情さにつけ込むようで……。
俺は、敵ピッチャー君にむけて軽く手を上げ、大丈夫だと合図した。が、……彼の顔はまだ赤い。真っ赤だ。俺の方も恥ずかしかったのは確かだが、でもユニフォーム越しに、しかも俺みたいな平らな胸に顔を埋めたくらいで、そんなに恐縮することないんだぞ。
ふと顔をあげると、スタンドは妙な盛り上がりをしている。
なるほど、いまのファーストベース上での男女選手の交錯シーンといい、さっきの一希ちゃんへの死球といい、これって高校野球の女子選手解禁を象徴するようなシーンだよなぁ。きっとこの映像がテレビやネットで何度も何度も何度も放映されるんだろうなぁ。
……なぁんてことを、俺は思ってしまった。そして、それは事実だったのだ。
2016.10.02 初出




