(エピローグ) カフェ・ペンデュラム
考えてみれば、実家へ戻るのは久しぶりだ。
僕は、留守中に腐敗しそうな食料品をかき集めてごみ袋に詰め込んでいた。窓の鍵を全部確認し、見逃せないテレビ番組の録画予約もすませた。
きっとこういう、もろもろのこまかい作業が面倒で、無意識のうちに実家から足が遠のいていたのだろう、と僕は思った。実家にはおもに盆と正月くらいしか帰っていなかった。その気になれば毎週末でも楽に帰れる距離だというのに。
僕はボストンバッグを肩にかけ、玄関に施錠した。アパートの階段を降り、わずかに雪の残る駐車場を横切り、収集場所にごみの袋を置いた後、ローンで買った小さな車の後部座席にバッグを放り込んだ。
僕は、ガソリンを入れたばかりの車を出発させた。道路の雪は消えていた。
来週あたり天気が良ければ、スタッドレスタイヤを交換しようと思った。
今回の帰省は、ゴールデンウィークを前倒しした連休が取れたからだった。社員全員が一斉に休んでしまうと工場が止まってしまうので、みな適当に散らして休みをとっているのだ。
とはいえ、まだ四月の上旬だ。桜の咲く下旬とまでは贅沢を言えないが、せめて中旬に休めたらよかったのに、と僕は思った。しかし、新入りの僕らは先輩方に遠慮することも必要だった。
それは、僕と入社が半年違う小夜子でも同じことだった。おかげで、はからずも同じスケジュールで休暇をとることができた。
小夜子のアパートの前に車を停め、メールで合図しようと思ったが、小夜子はもう準備して部屋から出てきていた。僕よりも大きな荷物を抱えている。女の子は大変だ。
「すまん、遅れたか?」
「ううん。たぶんそろそろだと思って出てきちゃった」
小夜子は荷物を積み込むと、ハンドバッグ一つを持って助手席に乗り込んだ。春物のショートパンツに編み込み模様の入ったタイツを合わせている。ブラックの缶コーヒーをひとつ僕によこして、自分はペットボトルのミルクティーを飲んでいた。
「あれ? なんか、前にもこんなことあったかしら?」
小夜子は時々そういうことを言う。
「それデジャヴっていうやつだろ? 人間の記憶ってけっこういい加減で、断片的な過去の記憶を切ったり貼ったりして、勝手に補完するんだ。だから、多少違っていることでも、なんか前に見た気がするとか、そういう錯覚が起こるんだよ」
「そういうもんなの? 航星って理屈には詳しいわよね」
多少不満げに小夜子が言った。
小夜子は僕が入社したその日、初めて作業服を支給してくれて、健康保険の手続きをしてくれた女性事務員だ。航海の航に星って書いてワタルって読むのね、きれいな名前だわ、と、僕に笑いかけてくれた。ベテランかと思いきや、僕よりも半年入社が早いだけだと聞いて驚いた。ずいぶんてきぱきと仕事をする人だと感心していたからだ。
それにしても、僕は彼女にどこかで会ったことがある気がしてならなかった。
あるとき、ナンパと間違えられるのを覚悟で、思い切って本人に聞いてみた。すると、彼女もおなじように思っていたという。二人して頭をひねって考えた結果、数年前に僕が所属していた小劇団に、小夜子が一度だけ手伝いに来ていたことがわかった。お互いの実家が近いことも判明した。
僕たちは意気投合し、週に一度は一緒に食事をしたり、お酒を飲んだりした。そのうちに、お互いの部屋に招いたりする仲になった。
不思議なことはもうひとつあって、小夜子がバッグにつけているアクセサリーと、僕が携帯電話につけているアクセサリーが、色違いの同じものだった。それは鎖のついた振り子の形で、僕のものは瑠璃の石が、小夜子のものには柘榴石がついていた。僕も小夜子も、これをどこで買ったのかはついに思い出すことができなかった。
僕らの乗った車は国道に乗った。
ここからしばらくは郊外で、窓の外は田園風景となり、なだらかな道が続く。落ち穂拾いをしているハクチョウの群れが見える。もう北へ帰る頃だろう。
僕らが一緒に、実家のある街へ帰るのは初めてのことだった。
早春の風はまだ肌寒かったが、車の窓を閉めていれば日差しは暖かだった。ちょっとした良いドライブだ。
「デジャヴって言えば、ねえ、あのカフェを探しにいきましょうよ」
「ああ、そういえば前から言ってたっけな」
小夜子が言うのは、ずっと前に夢で見た気がするとかいう架空のカフェのことだ。
彼女によると、そのカフェは実際にどこかにあるらしい。僕らはデートのたびに、街のあちこちのカフェに入ってみたが、彼女のイメージにぴったりくる店は見つからなかった。
今度帰省するときに、地元の街にあるカフェも巡ってみましょうよ、と、小夜子は前々から言っていたのだ。
「そのカフェにはきっと、色白で眼鏡のマスターがいるのよ」
夢でみた話をよくも嬉々として語れるもんだ。でも、小夜子の話を聞いているうちに、なんだか僕もそのカフェが実在するような気がしてきた。
「もしかしたら、レトロな振り子時計なんかがあったりするんじゃないのかな」
「きっとそうよ」
僕が言うと小夜子も乗ってきた。
「なぜか裏メニューにカレーうどんがあったりしてな」
「いいわね! イメージ通りになってきたわ」
僕たちは車を走らせながら、まだ見ぬカフェについての想像を膨らませていた。平日なので道路はすいていて、僕らの車は調子よく走っていった。見通しのよい田んぼの中の道は終わり、故郷の市街地が見えてきた。
そうだな――僕は考えた。まず、駅西口方面の、旧商店街通りあたりを探してみようか。
たぶん、それは見つかりにくいところにある。通りから小さな横道を入り、古いビルの目立たない階段を上ったあたりだ。
もしもそこで本当に、振り子時計のあるカフェを見つけたなら、僕らはミートドリアとナポリタンなんかを注文しよう。
そして、食後のコーヒーを飲みながら、彼女に結婚を申し込もうと思う。
色白眼鏡のマスターもきっと、僕たちを祝福してくれると思うんだ。
最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。