第5話 触れた瞬間、奪った力
結局、その夜は宿を取らなかった。
取れなかった、が正しい。
銀貨十枚という所持金で王都の宿を使うのは危険だと、さっきの白髪の男の言葉でようやく理解した。俺は土地の相場も、治安も知らない。そんな状態で安易に金を使えば、明日には詰む可能性が高い。
だから城壁近くの外れへ移動し、半ば廃墟みたいな石小屋の陰に身を潜めることにした。
臭いはひどいし、地面は硬い。日本で野宿なんてしたこともない。
それでも屋根があるだけありがたかった。
「……最悪だな」
膝を抱えて壁にもたれ、空を見上げる。
見知らぬ星。
見知らぬ月。
異世界に来た実感なんて、とっくに嫌というほど味わっていた。
腹は減っている。喉も渇いている。さっき殴られた腹がじくじく痛む。これで明日以降どうやって生きるのかなんて、まるで見当もつかない。
なのに、頭から離れないのは別のことだった。
路地裏で起きた、あの現象。
俺はゆっくり自分の手を開いて、閉じた。
「相手に触れたら……使えた?」
盗賊みたいな男の腕を掴んだ瞬間、技術が流れ込んだ。
それは一時の錯覚なんかじゃない。実際、俺はそれまでできなかった動きで男を転ばせ、短剣まで避けてみせた。
つまり、あれが俺の力なのか。
職業がなかった代わりに、別の何かが与えられている――そんな可能性が脳裏をよぎる。
だが、確証はない。
試したくても相手がいない。
ぼんやりそんなことを考えていると、石小屋の入口から足音が近づいてきた。
「誰だ」
低い声に、びくりと肩が跳ねる。
見ると、入口に人影が立っていた。
昨日の白髪の男だ。革鎧姿のまま、片手に水袋を提げている。
「……あんた」
「やっぱりいやがったか。言ったろ、壁のあるとこにしろって」
呆れたように言いながら、中へ入ってくる。
反射的に警戒したが、男は鼻を鳴らした。
「安心しろ。追い剥ぎするなら、もう少しマシな奴を狙う」
「言い方がひどいですね」
「事実だ」
その通りすぎて何も言えない。
男は水袋を投げてよこした。慌てて受け取る。
「飲め」
「……いいんですか」
「死なれても寝覚めが悪い」
恐る恐る口をつける。
ぬるいが、喉に染みた。
「ありがとうございます」
「礼は二度目だな。律儀なこった」
男は壁際に腰を下ろした。
「名は?」
「相沢恒一です」
「コーイチ、か。俺はガレス」
名乗ったその瞬間だった。
何かが、また流れ込んだ。
「――っ!」
今度は接触していない。
けれど、男から漂う気配、立ち居振る舞い、視線の置き方を見た瞬間、俺の中に微かな“理解”が生まれる。気配を探る感覚。野外で眠る時の場所選び。身を守る姿勢。
さっきほど強くはない。
でも確かに、何かを“なぞった”感覚があった。
「どうした」
「いえ……」
やっぱりおかしい。
俺は少し迷ってから、思い切って聞いた。
「ガレスさんって、冒険者ですか?」
「ほう。分かるのか」
「なんとなく」
ガレスは片眉を上げた。
「元だ。今は半分引退して、ギルドの雑用みてえなことしてる」
「ギルド?」
「冒険者ギルドも知らねえのか、お前」
呆れられて当然だ。
この世界の常識を、俺は何も知らない。
ガレスはため息をついた。
「まあいい。異世界人だの辺境育ちだの、事情がある奴も珍しくねえ」
「……」
「仕事を請けて、魔物狩ったり、採集したり、護衛したりする連中の寄り合いだ。身分のない奴が食っていくなら一番手っ取り早い」
その言葉に、思わず身を乗り出した。
「俺でも入れますか」
「実力と最低限の身元があればな。職業持ちなら有利だが、絶対条件じゃねえ」
「職業がなくても?」
「なくても、だ。ただし――」
ガレスの目が細くなる。
「本当に無職なら、相応に死ぬ」
容赦がない。
だがだからこそ、現実味があった。
「それでも、他に道はなさそうです」
「だろうな」
ガレスはあっさり認めた。
「王都にしがみつくより、近郊の町で登録した方がいい。変な噂も少ねえし、仕事も回りやすい」
「噂?」
「城から放り出された妙な若造、なんてのは広まる時は広まる」
胃が重くなる。
やっぱり、俺の追放は隠されていないのか。
「……気になるか?」
「そりゃ」
「なら強くなれ。噂なんざ、実力がありゃ塗り潰せる」
簡単に言う。
けれど、その言葉には妙な重みがあった。
この人はたぶん、本当にそうやって生きてきたのだろう。
「一つ、聞いていいですか」
「なんだ」
「この世界では、誰でも職業があるんですよね」
「基本はな」
「じゃあ……職業がないって、そんなにおかしいですか」
「おかしいどころじゃねえ」
即答だった。
「ガキでも農民でも、何かしらある。戦えねえ奴にも、生き方の印みてえなもんは刻まれてる。それがないってんなら、普通じゃない」
やっぱりそうか。
少しだけ期待していた。
もしかしたら、王国が騒ぎすぎなだけで、珍しいだけのことかもしれないと。
でも違う。
本当に俺は、この世界の枠から外れている。
「……そうですか」
「だが」
ガレスが言葉を継ぐ。
「さっきの動きは素人じゃなかった。お前、何か隠してるだろ」
「隠してるというか、俺もよく分かってないんです」
正直に言うと、ガレスはじっと俺を見た。
「話せる範囲で話せ」
「信じてもらえるか分からないですけど」
俺は路地裏で起きたことを、できるだけ順序立てて説明した。
ならず者に掴まれ、逆に掴み返した瞬間、身体の使い方が流れ込んできたこと。短剣の男にも同じような感覚があったこと。
話しながら、自分でも荒唐無稽だと思った。
だがガレスは笑わなかった。
「……ふむ」
「やっぱり変ですか」
「変だ。だが、この世界にゃ変な職も変な技能もごまんとある」
そこまで言って、ガレスは腕を組んだ。
「試してみるか」
「え?」
「ほれ」
差し出されたのは手だった。
ごつごつして、傷だらけの手。
ためらいながらも、俺はその手を握る。
瞬間。
今までよりもはっきりと、何かが流れ込んだ。
森を歩く時の足音の殺し方。
夜営地で火を焚く位置。
魔物に襲われにくい地形の見分け方。
危険の匂いを察知するための身体の使い方。
「……っ!」
思わず息を呑む。
これは、さっきと同じだ。
でも路地裏のならず者より、もっと洗練されていて、積み重ねられた経験の重みがある。
「どうだ」
「来ました……」
「何が」
「何かが、です」
ガレスはふっと笑った。
「やっぱりな」
俺は手を離し、呆然と自分の身体を見下ろした。
足の置き方一つで、周囲の気配を拾いやすくなる感覚がある。
ただ歩くだけでも、さっきまでより静かに動けそうだと分かる。
「……これ、本当に」
「おそらく、お前は相手の職能を写し取ってる」
職能。
つまり職業の力。
「そんなこと、あり得るんですか」
「普通じゃねえな。聞いたこともねえ。だが現に起きてる」
ガレスは面白がるようでもあり、警戒しているようでもあった。
「一つ言っとく」
「はい」
「その力、下手に見せびらかすな。奪う力ってのは、嫌われやすい」
「……」
「まあ、お前の場合は奪うというより、写すか、借りるか、そんな感じだがな」
俺はゆっくり息を吐いた。
確信した。
俺には力がある。
鑑定には出ない。
王国にも見えない。
でも確かに、ここにある。
「職業、なし……じゃないのか」
「いや、職業なしなんだろうさ」
ガレスは肩をすくめた。
「だが“職業がないこと”と“力がないこと”は同じじゃねえ」
その言葉が、胸の奥に深く落ちた。
王国は俺を空白と呼んだ。
無価値みたいに扱った。
けれど本当は違ったのかもしれない。
空っぽだからこそ、入る。
何もないからこそ、写せる。
もしそうなら――。
「冒険者ギルド、行きます」
「ああ」
「生きるために、使えるものは使う」
「いい目になったな」
ガレスは立ち上がった。
「明日、町まで案内してやる。王都じゃなく、少し外れた場所だ」
「助かります」
「勘違いすんな。面白そうだからだ」
そう言って笑う顔は、最初より少しだけ人間味があった。
異世界で追放され、職業なしと切り捨てられた俺は。
ようやく、自分だけの一枚目のカードを手に入れたのかもしれない。
――触れた瞬間、奪うのではなく、写し取る。
その力が、俺をどこへ連れていくのか。
まだ何も分からない。
けれど少なくとも今は、絶望だけじゃなかった。




