第4話 最初の夜
「兄ちゃん、ちょっと話しようや」
路地裏の影から出てきた男は、気安い口調とは裏腹に、目がまるで笑っていなかった。
もう一人も左右に回り込むように動く。
逃げ道を塞ぐつもりだ。
「……何か用ですか」
「そんな警戒すんなって。俺たちゃ親切にしてやろうと思ってな」
「そうそう。見ねえ顔だし、困ってんじゃねえか?」
完全に獲物を見る目だった。
王都の通りは人通りがある。けれど、だから安全とは限らない。むしろ、この世界じゃ揉め事なんて日常茶飯事なのかもしれない。周囲の何人かはこちらをちらりと見たが、面倒事には関わりたくないのか、すぐ視線を逸らしていく。
助けは期待できない。
「間に合ってます」
「そう言うなって」
男の一人が一歩踏み出した。
反射的にこちらも下がる。
その動きだけで、相手の顔に確信が浮かんだ。
――こいつ、弱い。
そう判断されたのだろう。
「兄ちゃん、城から出てきたとこ見たぜ?」
「銀貨くらい持ってんだろ。少し融通しろよ」
「嫌だと言ったら?」
「そんなこと言うなって。痛い目見たくねえだろ?」
喉が渇く。
会社勤めをしていた普通の男に、こういう連中を相手にする経験なんてない。せいぜい酔っ払いの仲裁をしたことがある程度だ。まして異世界に来て二日目。土地勘もない。頼れる相手もいない。
けれど、ここで金を渡したら終わりだとも分かっていた。
銀貨十枚は、今の俺の命綱そのものだ。
「……悪いけど、渡せない」
「は?」
気安い笑みが消えた。
「おいおい、立場分かって言ってんのか?」
「異世界人様でも、捨てられたらただのカモだぜ?」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
捨てられた。確かにその通りだ。だが、初対面のならず者にまでそれを笑われる筋合いはない。
「どけ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
一瞬だけ、男たちの表情が強張る。
だがすぐに、嘲るような笑いに変わった。
「やれるもんならやってみろよ」
次の瞬間、右にいた男が腕を伸ばしてきた。
革袋を狙っている。
とっさに振り払おうとしたが、その手がこちらの肩を掴んだ。強い。会社で書類箱を持つのとはわけが違う、荒事慣れした力だった。
「っ……!」
もう一人が腹に拳を入れようと踏み込んでくる。
避けきれない。
衝撃。
息が詰まる。視界が揺れる。
「やっぱ弱ぇな」
「大人しく出せばいいのによ」
膝が折れかけたところで、肩を掴まれたまま引き寄せられる。
逃げられない。
痛みと恐怖で頭が真っ白になりかける。
このまま路地裏に引きずり込まれたら、本当に終わる。
嫌だ。
こんなところで終われるか。
咄嗟に、相手の腕を強く掴み返した。
その瞬間だった。
ず、と。
何かが流れ込んできた。
「――え?」
知らない感覚。
手のひらに伝わる皮膚の感触と同時に、別人の身体の使い方が頭の中へ雪崩れ込んでくる。重心の落とし方、踏み込みの角度、腕の捻り、相手を崩すコツ。言葉じゃない。もっと直接的な、身体の記憶みたいなもの。
混乱する俺の身体が、勝手に動いた。
掴んでいた手首を捻り、半歩ずれる。
男の体勢が崩れた。
「なっ!?」
驚いた声。
そのまま反射的に足を払うと、男は無様に石畳へ転がった。
「ぐっ!?」
「てめぇ!」
もう一人が短剣を抜く。
銀色の刃が夕暮れを反射した。
心臓が跳ねる。
だがさっき流れ込んできた感覚が、刃の軌道を妙に鮮明に予測させた。
振り下ろされる。
身体をひねる。
紙一重で避ける。
「うそだろ……!」
自分でも信じられなかった。
たまたま、じゃない。今の俺は、相手の動きを“知っていた”。
さらに踏み込んで、男の手首を掴む。
また、流れ込む。
今度は短剣の扱い。間合い。脅し方。急所。
ぞわりとする情報の奔流に吐き気すら覚える。
けれど同時に、その手がどう動くかも分かってしまった。
振り下ろされる前に、肘を押し上げる。
刃が逸れ、石壁に当たって甲高い音を立てた。
思わず男の腹を蹴る。
手加減なんてできない。ただ必死だった。
「ぐぇっ!」
男がよろめく。
その隙に距離を取る。
呼吸が荒い。
何が起きてる。
転んだ方の男が立ち上がりながら呻いた。
「なんだ、こいつ……急に……!」
「職持ちか!?」
「知るかよ!」
男たちの顔から余裕が消えていた。
こちらも余裕なんてない。けれど、少なくとも一方的にやられる状況ではなくなった。
その時、路地の奥から別の声が飛んだ。
「何してやがる!」
しゃがれた怒声。
見ると、革鎧を着た白髪の男がこちらへ駆けてきていた。年は五十を過ぎていそうだが、足取りは妙にしっかりしている。
「衛兵呼ぶぞ、このクズども!」
ならず者たちは舌打ちした。
「ちっ、面倒だ!」
「覚えてろよ!」
捨て台詞と共に、二人は路地の奥へ逃げていく。
追う気力なんて、俺にはなかった。
その場に立ったまま、ようやく膝が震え出す。
「おい、大丈夫か」
白髪の男が近寄ってきた。
「あ、はい……たぶん」
「たぶん、じゃ困るがな」
男は呆れたように言いながらも、俺の顔色を確かめた。
「やられたのは腹か?」
「少し」
「死にゃしねえな。運がいい」
ぶっきらぼうだが、助けてくれたのは間違いない。
「ありがとうございます」
「礼はいい。で、お前さん見ねえ顔だな。旅人か?」
「……そんなところです」
異世界から召喚されて追放されたばかりです、なんて説明しても信じられるわけがない。
男はそれ以上踏み込まず、ふっと鼻を鳴らした。
「まあ訳ありか。王都じゃ珍しくもねえ」
「……ああいうのはよくあるんですか」
「お前みたいな舐められやすい格好してりゃな」
反論できなかった。
男は周囲を軽く見回し、低く言う。
「日が落ちる前に安宿でも探せ。金がねえなら壁のあるとこで寝ろ。野っ原よりはマシだ」
「壁のあるところ?」
「城壁近くの外れだ。浮浪者も多いが、魔物よりはマシだぞ」
「……魔物」
そうか。
ここは異世界だ。人間以外の危険もいる。
頭が痛くなりそうだった。
「忠告しとく」
男がこちらをまっすぐ見た。
「王都の外で夜を迎えるな。今のお前は、野犬より弱そうに見える」
その物言いはきつかったが、悪意はなかった。
「……肝に銘じます」
「よし」
男は踵を返しかけて、ふと止まる。
「そういやさっき、お前、妙な動きしてたな」
「妙な?」
「素人みてえだったのに、途中から急に盗賊崩れみてえな捌きになった。ありゃ何だ」
ぎくりとした。
自分でも分からないことを、他人に説明できるわけがない。
「……必死だったので」
「ふん。まあいい」
男は深くは追及しなかった。
「死ぬなよ、若造」
「そっちも」
「はっ、生意気だ」
白髪の男は笑って去っていく。
一人残された俺は、しばらくその場から動けなかった。
さっき起きたことを、頭の中で何度も反芻する。
腕を掴んだ瞬間、流れ込んできた感覚。
知らないはずの体術。短剣の扱い。相手の癖。
あれは何だった。
「……職業、なしのはずなのに」
呟きながら、自分の手を見下ろす。
震えはまだ止まらない。
けれど、恐怖の底に別の感情があった。
もしかしたら。
俺には、本当に何もないわけじゃないのかもしれない。
その希望だけを胸に、俺は重い足を引きずって王都の外れへ向かった。
異世界での最初の夜が、まだ終わりそうになかった。




