第12話 忘れられない人
篠宮玲奈は、昔から空気を読むのが苦手だった。
苦手というより、読んでも我慢できないタイプだと自分では思っている。会社にいた頃からそうだ。理不尽なことを理不尽だと言ってしまうし、気になる人のことは気になってしまう。
だから今の状況は、最悪だった。
「もう一度」
指導役の騎士が言う。
「風精霊との連携を保ったまま三連射です」
王城の訓練場。
玲奈は弓を構え、深く息を吸った。
精霊弓姫――その職業は、想像以上に凄まじかった。風の流れが読める。遠くの気配が見える。矢筋が自分でも恐ろしいほど綺麗に通る。普通の会社員だった自分には、あり得ないくらいの力だ。
一本目。
的の中心。
二本目。
一本目に重なる。
三本目。
そのわずかな隙間を穿つ。
「見事です!」
「さすが精霊弓姫様!」
周囲から歓声が上がる。
玲奈は弓を下ろしながら、どうでもいいと思ってしまった。
確かに気持ちはいい。
力があるのは分かる。ちやほやされるのだって、悪い気はしない。
でも、そのたびに頭をよぎる。
――相沢先輩だったら、たぶんこういう時も調子に乗るなって言うんだろうな。
会社では何かと世話を焼かれていた。
締切を忘れそうになった時、何気なくフォローしてくれた。営業先で失敗して落ち込んだ時、飲み物を差し入れてくれた。褒める時も叱る時も、過剰じゃなくて、でもちゃんと見てくれていた。
今思えば、自分はかなり甘えていたのかもしれない。
「篠宮殿」
訓練後、若い騎士が近づいてきた。
王城へ来てから何度も話しかけてくる男だ。
「本日の精霊操作も素晴らしかったです。やはりあなたこそ、王国を導く弓姫にふさわしい」
「……どうも」
適当に返す。
「今夜、よければ教会区の夜会へ」
「行きません」
「え?」
「疲れてるので」
即答すると、騎士の笑顔が引きつった。
玲奈はそのまま踵を返す。
後ろで何か言っていたが、もうどうでもよかった。
廊下を歩いていると、ふと窓の向こうに王都の街並みが見える。
高い壁。広い通り。賑やかな人の流れ。そこへ出ることすら、自分には許されていない。
守られているんじゃない。
監視されている。
それを最近、はっきり感じるようになっていた。
部屋へ戻る前、玲奈は思い切って侍女へ聞いてみた。
「あの、追放されたもう一人の人、いましたよね」
「……はい」
「その人、今どこにいるか知ってます?」
「存じません」
「本当に?」
「本当に、でございます」
綺麗なお辞儀。
綺麗な無表情。
玲奈は奥歯を噛んだ。
「……無職だからって、そんなに悪いことなんですか」
「篠宮様」
侍女は顔を上げない。
「どうか、その件には触れませぬよう」
「なんで」
「ご自身のためです」
それだけ言って、侍女は去っていった。
ご自身のため。
その言葉が、むしろ真実を物語っていた。
夕刻、玲奈は一人で中庭のベンチに座っていた。
風が吹き、花壇の花が揺れる。
この世界に来てから、全部が急に変わった。
会社員だった昨日までの自分はどこにもいない。なのに、自分の中で一番引っかかっているのは、強い職業を得たことでも、異世界に来たことでもない。
相沢恒一がいないこと。
それだけだった。
「……最低だな、私」
ぽつりと呟く。
あの時、もっと強く止められたんじゃないか。
泣き喚くだけじゃなく、ちゃんと王国に食ってかかれたんじゃないか。
せめて一緒に行くと言えたんじゃないか。
でも何もできなかった。
怖かったからだ。
知らない世界で、力も立場もないのが怖かった。王国に逆らって、自分まで捨てられるのが怖かった。
「……最低だ」
もう一度言う。
「誰がですか」
声がして顔を上げると、大雅が立っていた。
「桐生先輩」
「いや、通りがかっただけ。なんかすげえ暗い顔してんなと思って」
大雅は以前より装いが豪華になっていた。
訓練用の軽装とはいえ、王国お抱えの剣聖らしい仕立てだ。
「何かあったのか」
「別に」
「相沢のこと?」
図星を突かれて、玲奈は目を逸らした。
大雅はベンチの背に寄りかかり、面倒くさそうに息を吐く。
「まだ気にしてんのか」
「気にしますよ、普通」
「いや、まあ……」
「桐生先輩は気にしてないんですか」
少しきつい声になった。
大雅は眉をひそめる。
「気にしてないわけじゃない。でも、もうどうしようもないだろ」
「それ、神崎先輩みたいなこと言ってます」
「一緒にすんなよ」
不機嫌そうに返しつつも、大雅は完全には否定できない顔だった。
「俺だってさ、あいつがああなるとは思ってなかった。でも結果として俺たちはこっち側で、相沢は外れた。それだけの話だろ」
「……本気でそう思ってるなら、最低です」
「は?」
大雅の顔が険しくなる。
「お前、言い過ぎ」
「だってそうじゃないですか。先輩は、相沢先輩に助けられたこと一回もないんですか?」
「それとこれとは」
「同じです!」
思わず立ち上がる。
「会社でも、相沢先輩っていつも損な役回りばっかりしてたじゃないですか。調整したり、間に入ったり、面倒なこと引き受けたり。それでいざ自分が切られたら、みんな“仕方ない”で済ませるんですか?」
言い切って、自分でも息が荒くなっているのが分かった。
大雅はしばらく黙っていたが、やがて小さく舌打ちした。
「……知らねえよ」
「逃げないでください」
「逃げてねえ!」
怒鳴り返す声。
でも、その奥には苛立ちだけじゃなく、居心地の悪さも見えた。
大雅は乱暴に頭をかく。
「じゃあどうしろってんだよ。王国に喧嘩売って、全員まとめて放り出されりゃ満足か?」
「そんな極端な話してません」
「似たようなもんだろ」
「違います!」
言い合いになりかけた、その時。
「二人とも、何をしている」
低い声が割って入った。
神崎だった。
玲奈は露骨に顔をしかめた。
大雅は舌打ちを飲み込むように口を閉じる。
神崎は二人を見比べて、淡々と言う。
「感情的になるな。ここは会社の休憩室じゃない」
「……」
「篠宮さん。相沢の件に執着しすぎるのはやめなさい。王国から見れば、それは不穏分子の兆候と取られかねない」
「不穏分子って、なんですか」
「そのままの意味です」
冷たく言われ、玲奈は奥歯を噛む。
「無職など捨て置けばいい」
神崎ははっきり言った。
「我々には我々の役目がある。君は精霊弓姫として、この国で最善を尽くすべきだ」
その一言が、玲奈の中で何かを切った。
「……無職“など”?」
「玲奈」
大雅が低く制する。
「やめとけ」
でも止まらなかった。
「相沢先輩は“など”じゃないです」
「篠宮さん」
「ずっとみんなの面倒見て、損な仕事押しつけられても文句言わなくて、最後に切られる時まで大きな声も出さなくて……そんな人のことを、“など”って言わないでください」
自分でも、半分泣きそうな声になっているのが分かった。
神崎の目が、わずかに細くなる。
「感情論ですね」
「そうです。感情ですよ」
玲奈は睨み返した。
「でも人を捨てるかどうかって、最後はそこじゃないんですか」
神崎は答えなかった。
ただ、その沈黙だけで十分だった。
彼にとっては違うのだ。
優先順位、合理性、役割。そういう言葉の方が、人の気持ちよりずっと重い。
「……部屋に戻ります」
玲奈は踵を返した。
もうこれ以上、同じ空間にいたくなかった。
自室へ戻り、窓辺に立つ。
遠い空を見上げる。
「先輩……生きててよ」
祈るように、呟く。
どうしてこんなに気になるのか、自分でも完全には説明できなかった。尊敬か、依存か、憧れか、それとも別の何かか。
ただ一つだけ確かなのは、忘れられないということだった。




