第11話 王国の聖女は微笑めない
王都の朝は早い。
まだ陽が高くなりきる前から、朝倉美咲は侍女に起こされ、淡い白の法衣へ着替えさせられていた。鏡の中の自分は、会社員だった頃よりずっと綺麗に整えられている。髪も、肌も、衣装も、何もかもが“聖女らしく”作られていた。
けれどその姿を見ても、少しも気分は晴れなかった。
「本日は浄化儀式の後、騎士団への加護付与、その後に王族との昼餐となります」
「……分かりました」
返事をすると、侍女は恭しく頭を下げた。
丁寧だ。だがその目には、職務以上の感情がない。
美咲は王国で“聖導姫”として扱われていた。
異世界より現れた奇跡の聖女候補。回復、浄化、結界、支援に秀でた希少な職業の持ち主。召喚の成功を象徴する存在。
――表向きは、そうだ。
実際には、毎日が訓練と儀式と視察の連続だった。
自由に出歩くことはできない。食事も、会話も、どこまでが本音でどこまでが監視か分からない。笑顔を向けられていても、その奥には常に“使える戦力”を見る色がある。
浄化儀式を終え、騎士たちへ加護を付与しながら、美咲は無意識に王城の外を見ていた。
あの日から、ずっと同じことを考えている。
――相沢さんは、今どうしているのだろう。
追放の場面が何度も脳裏に蘇る。
宰相の冷たい言葉。玲奈の悲鳴のような声。何もできなかった自分。引き止めることすら許されず、結局、彼が城門の向こうへ消えていくのを見ているしかなかった。
「朝倉殿」
呼ばれて顔を上げると、騎士団長が立っていた。
「本日の加護は見事でした。やはり聖導姫の力は素晴らしい」
「ありがとうございます」
反射的に微笑む。
それが今の自分に求められていることだからだ。
騎士団長は満足げに頷いたあと、何気ない調子で言った。
「篠宮殿も精霊弓姫として順調に力を伸ばしておられます。桐生殿の剣聖も、まさに王国の柱となる逸材。神崎殿も参謀方から高い評価を得ています」
「……そうですか」
そこに、相沢恒一の名前はなかった。
当然だ。
王国にとって彼は“初めからいなかった者”に近いのだから。
昼餐の席では、王太子が穏やかな笑みを浮かべて言った。
「朝倉殿の力は、いずれ王国の民に大きな安寧をもたらすでしょう」
「恐れ入ります」
「どうか我が国のため、これからも尽力していただきたい」
丁寧で、誠実そうな口ぶり。
だがその裏にあるのは願いではなく要請で、要請という名の拘束だと美咲はもう知っていた。
「……一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なんでしょう」
「追放された相沢さんの、その後は」
空気が変わった。
ほんの一瞬だったが、王太子の微笑みが薄れ、周囲の侍従たちの気配が張り詰める。
「その件は、もはや王国の管轄外です」
「ですが」
「朝倉殿」
穏やかな声。
それなのに、有無を言わせない圧があった。
「あなたは貴重な存在です。不要なことへ心を砕くより、自らの役割に集中していただきたい」
役割。
その言葉が、妙に胸に刺さる。
会社にいた頃も、似たようなことはあった。立場を考えろ。今やるべきことを見ろ。正しい言葉だったのだろう。でも、正しいからといって、切り捨てていいものまで切り捨てていいわけじゃない。
「……失礼いたしました」
頭を下げるしかなかった。
昼餐の後、ようやく玲奈と顔を合わせる時間ができたのは夕方になってからだった。王城の回廊、その一角。人払いはされているが、完全に安全とは言えない場所だ。
「美咲先輩」
「玲奈、大丈夫?」
「大丈夫じゃないです」
開口一番だった。
玲奈の表情は明るくなかった。
精霊弓姫として華やかな衣装を着せられ、丁重に扱われてはいる。だがその目の奥には苛立ちと不安が見えた。
「今日もまた聞いたんです。先輩のこと」
「相沢さんの?」
「でも、みんなはぐらかすんです。知らないとか、今はそれどころじゃないとか」
玲奈は拳を握る。
「絶対、何か知ってるのに」
「ええ……私もそう思う」
美咲は壁にもたれ、小さく息を吐いた。
「この国は、私たちに与えているように見せて、知ることを許していないのかもしれない」
「それ、私も思ってました」
玲奈が唇を尖らせる。
「最初は、ちゃんと守ってくれてるんだって思ってたんです。でも違う。守ってるんじゃなくて、囲ってるだけだ」
その言葉に、美咲は静かに頷いた。
王国は優しい顔をしている。
美しい部屋、上質な食事、礼儀正しい侍女、整えられた日程。けれどそれは、檻の内側を豪華に飾っているだけかもしれない。
「……相沢さん、生きていてくれるといいけど」
「生きてます」
玲奈は即答した。
「絶対、生きてます。だってあの人、そう簡単に諦める人じゃないし」
「ふふ」
「なんで笑うんですか」
「ううん。玲奈らしいなと思って」
少しだけ空気が和らいだ、その時だった。
「お二人とも、こちらにいらしたのですか」
後ろから声がした。
振り向くと、神崎恒一郎が立っていた。
「神崎さん」
「こんなところで内緒話ですか」
穏やかな口調。
けれど目は笑っていない。
玲奈が露骨に身構える。
「別に、普通の話です」
「そうですか。ならいいのですが」
神崎は二人の前まで来ると、少し声を落とした。
「一つ忠告しておきます。相沢の件に深入りしない方がいい」
「……どういう意味ですか」
美咲が問う。
「そのままの意味です。王国は彼を危険視している。ここで余計な感情を見せれば、あなたたちの立場まで悪くなる」
「危険視って、職業がないだけで?」
「だからこそです」
神崎の返答は即座だった。
「前例がないというのは、それだけで脅威になる。しかも今の王国は余裕がない。理解不能なものを抱え込む理由はないんですよ」
その言い方に、美咲の胸の奥が冷える。
「……神崎さんは、それで納得しているんですね」
「納得ではなく、現実です」
神崎は淡々としていた。
「我々はもう、会社員ではない。状況に適応できなければ生き残れません」
「でも」
玲奈が食い下がる。
「だからって、相沢先輩を捨てていい理由にはならないじゃないですか」
「感情論ですね」
ぴしゃりと言われ、玲奈の顔が赤くなる。
「感情を否定するつもりはありません。ですが、優先順位は考えるべきです」
「そんなの……」
玲奈は言い返せず、拳を震わせた。
神崎は最後に美咲を見た。
「朝倉さん。あなたは特に重要な存在だ。余計なことは考えず、王国に必要とされる役割を果たしてください」
そう言い残して去っていく背中を、美咲は黙って見送った。
役割。
またその言葉だ。
聖導姫として、王国のために。
でも、その役割の外にこぼれ落ちた人はどうなるのか。
その夜、自室へ戻った美咲は、窓辺に立ったまま王都の灯りを見下ろしていた。
豪奢な部屋。柔らかな寝具。温かな食事。
何不自由ないはずなのに、胸の中だけがひどく冷たかった。
侍女にさりげなく尋ねても、返ってくるのは曖昧な言葉ばかり。
知らないのか、知っていて口を閉ざしているのかすら分からない。
「相沢さん……」
ぽつりと名前を呼ぶ。
返事はない。
けれど、あの日と同じ後悔だけが胸に残る。
聖女と呼ばれても、微笑めない理由はそれだった。




