第39話 農民区画と卑劣な行為
「それじゃあ、行こうか」
少し遅めの朝食を食べた後、3人でフィルが旅に出るための用意をした。
そしていつもの時間に昼食を食べ、少しだけ話した後にシェリアがそう言った。それは、シェリアがこの場所を離れる覚悟ができた証明だった。
「もう、行くのね」
「うん。短い間だったけど、楽しかった。ありがとう」
「えぇ。私も楽しかったわ。最初は私たちとは違う感覚の存在だと思ってたけど、今日話してみてそれは違うってわかったわ。だからこそ、もっと話せなかったことが悔やまれるわね」
「そう思ってもらえたなら嬉しいよ。また逢ったら、今日の続きを話しましょう」
「もちろん!」
「魔女様、もう行ってしまわれるのですね」
「うん。グスタフもありがとう。グスタフが協力してくれなかったら、『闇蜂』討伐までもっと時間がかかったと思う。本当に助かった」
「いえ、お礼を言うのは我々の方です。この町を——いえ、シェリア町を代表して、私からお礼を申し上げさせていただきます。我々を『闇蜂』の魔の手から救ってくださり、本当にありがとうございました。このご恩は、たとえこの町が滅びようとも忘れません」
「そう。でも、感謝を表すなら、この町が滅びないように頑張ってほしいところだね」
「ははは。手厳しいお言葉ですが、確かにその通りですな」
そんなシェリアとグスタフのやり取りに、その場にいた全員が笑った。
シェリアは、そんなみんなの中心で柔らかく笑いながら一瞬だけフィルに視線を送った。その視線は確認の視線で、フィルがこの家から旅立つ覚悟が決まったのかを確認するためだった。それに気づいたフィルは、少しだけ寂しそうな表情をしてからふにゃりと笑った。
そしてシェリアは、もう一度言った。今度こそ、本当にお別れの挨拶として。
「それじゃあ行こうか。次の旅路へ——」
・・・
森から商業区画に出たシェリアたちは、そこにいた全員の人間から好意的な挨拶やお礼をもらいながら農業区画に向かって歩みを続けていた。フィルは初めての農民区画に対する好奇心を、アリスは久しぶりの故郷に対する喜びと寂しさと過去の悲惨な光景に対する戦いを、そしてシェリアは——
「……この先が農民区画だよね」
——商業区画に農民区画の人間が一切いなかったことに対する違和感を持っていた。
アリスは、シェリアの雰囲気から何かを警戒していることを感じて足を止めた。確かにこの森の先が農民区画だ。だが、アリスの記憶にある農民区画と商業区画は森の木で先の光景が遮られるまではっきりとわかれていなくて、これほどまでに森の先が静かな理由がわからなかった。
「それじゃあ、アリスが先頭で行こうか。その方が農民たちも安心するでしょ?」
「うん、そうだね。そうしよう」
そして3人は、アリスを先頭にして一緒に道を遮る木々を広げて農民区画に入った。
農民区画に入った3人が目にしたのは、コルニ村で2人の魔女が目にした光景と似たようなものであった。いや、それ以上にひどい状態だった。
農作物は一部しか植えられておらず、ほとんどの畑が荒れ果てていた。人間が生活している様子はあったが、明らかに通常の生活は送られている様子はなかった。だが、家の中から向けられている視線は明らかに敵対的な色を孕んでいた。
どうすればいいか迷っているアリスの後ろで、シェリアが2人にしか聞こえない声量で「ここは私に任せて」と言い、帽子で顔を隠しながらゆっくりと前に出た。そして、道の途中で急に立ち止まってその場に杖と帽子、ローブを捨てるように置いて地面にしゃがみこんだ。
「怯えていないで出ておいで。私は敵じゃない」
そしてシェリアは努めて柔らかい声で語りかけるように話し始めた。
「私の名前はシェリア。始まりの魔女。私はあなた達の敵じゃない——なんて言っても信じられないでしょうね。あなた達はきっと、みんなどこかに傷を負っているから」
シェリアの声に反応する者はいない。物音もない。農民区画にいたすべての人間が、息を殺して体を縮こませて家の中に閉じこもっている。そしてシェリアのことも、他人のことも、そして自分自身のことも。
アリスはそんな農民たちの様子をシェリアを見て、シェリアが今から何をしようとしているのかわかった。
それは、シェリアだからこそできる優しくて温かい寄り添い。あの日シェリアは、「心の病を治すことはできない」と話していたけど、アリスにはそれすらできるのではないかと思い始めていた。
だって——
「——この世界で誰よりも人間を愛している、シェリアだからこそ。だよね」
「うん。私も、そう思う」
だって今、シェリアが魔法で奏でている音楽を聴いている農民たちから、少しずつ敵対的な視線が消えて言っているのを感じたから。シェリアは、しゃがんだまま動かない。ただ眼を閉じて、自分の音楽に導かれるようにゆっくりと体を揺らしているだけ。
これはシェリアが、人間たちの心が黒く濁った時にやっていることだった。何かを言うわけでもなく、何かを聞くわけでもない。ただ、人間たちの近くでシェリアがお気に入りの音楽を流しながら寄り添っているだけ。でもただそれだけのことが、人間にとっては心の濁りに差し込む微かな希望に変わっていた。同じ人間にはできない、シェリアだからこそできることだった。
シェリアと村人たちの均衡状態が1時間ほど続いた時、小さな痩せた子供が恐る恐る家から出てきた。その子の両親は家の中にはおらず、誰も止められないからこそ勇気を振り絞ることができた様子だった。その子供とシェリアが目が合うと、シェリアは無邪気な笑顔で手招きをした。それに誘われるように目の前に近づいてきた少年に、シェリアは優しく語りかけた。
「こんにちは。1人?」
「……おねえさん、だれ?」
「私は優しい魔女だよ。名前はシェリア」
「しぇりあ、おねえさん?」
「そうだよ。よろしくね」
そう声をかけ、手を伸ばして子供の頭を撫でた。
その直後、シェリアと少年の真ん中から空間を穿つような光が現れた。その光は子供ごとシェリアを殺そうとしていた。そんな状況に置かれた子供の表情は、笑っていた。
「はぁ……子供にこんな表情させるなんてね」
その言葉を呟いた瞬間、世界から音が消えた。直後、衝撃波が森付近まで届いてアリスとフィル、そして誰もいない家を襲った。その中心にいた2人は——
「まったく……子供を爆弾にする馬鹿がどこにいる」
結界魔法で身を固めながら、シェリアの腕の中で子供は穏やかな表情で眠っていた。
「あなたたちの認識を2つ正そうか。1つは私たちは人間の敵じゃない。そして——」
結界魔法を解きながら、シェリアは少し怒りを孕んだ強い瞳で言い放った。
「——今のこの行為は、人間の敵が持ち込んだ卑劣な行為だ」




