フェリクスパパの夢
アダルベルト邸の小さな畑には、今いちごが植わっている。
このいちごは去年の冬前に、5歳の娘アンネリーゼが、小さな小さなかわいい手で直接植えたものだ。
娘は誰に何を言われずとも毎日のように水をやりにでかけ、本格的に寒くなれば布をかぶせ、育ってくれば無駄な葉っぱをせっせとちぎり。
春の始めには白く清純でこじんまりとした、まるでアンネリーゼを写したような花がいっぱいに咲いた。
今は花が落ち、代わりに白い実があちこちで膨らんでいるところだ。
「いっぱいジャムをつくったら、おとうさまにもすこーしさしあげます!楽しみ?」
そう言って、暖かくふにゃりとした体が私の足に抱きつく。
「ああ、楽しみだ」
抱き上げて母親そっくりのくるくるした黒い髪を撫でる。
すると娘ははっとしたように体をよじって逃げ、私の腕からえいや、と降りた。
「おや、抱っこはいらないのかい?」
「わたくしはもうシュクジョなので、抱っこはしません!」
昨日は母の膝の上ですりすりしていたくせに、そんなことを言う。
娘の成長を感じて、胸が少しうずいた。
アンネリーゼがいちごの前にしゃがみ込む。
「ねえ、おとうさま。いちごかわいいですねー」
「そうだね。花も可愛かったが実もかわいいね。色づいて赤くなると、もっとかわいいかもしれない」
「金色のムギバタケとどっちがかわいい?」
「ん?」
「おとうさまがよくお話する、クレーベのムギバタケの金色とどっちがすごい?」
金色の麦畑とは、クレーベで秋に見られる麦畑のことだ。
収穫時期を迎えた麦穂が一斉に黄金色に変わり、まるで金の海に立っているような気分になる。
そんな話を何度か娘に聞かせた。
「そうだねえ。いちごはかわいいし、金色の麦畑は…美しい、かな?」
「ふぅん」
アンネリーゼはしゃがんだまま、明るい茶色の目で私を見上げた。
「わたくし、金色のムギバタケみてみたいなあ」
その無邪気な言葉を聞き、私の胸に喜びが吹き荒れた。
愛しい娘が父の故郷を見たいと言う。
これがこんなに嬉しいことだとは。
「そうだろうとも。そうだな。今年の秋には見せてあげよう」
「ほんとーですか?お約束?」
「もちろんだよ」
安請け合いだという自覚はあったが、必ず叶えてみせようと、私は決意した。
※※※
妻はテラスにいた。
2歳になる息子コンラートに本を読み聞かせていたようだ。
春の陽だまりの中、大きなクッションにドレスを広げて座り、柔らかい表情で息子に話しかけている。
コンラートは母の横に腹ばいになり、なにやら難しそうな顔で話を聞き入っている。
その光景はどんな名画にも勝る一服の絵だった。
しばし見惚れていると、妻が私に気づいた。
「まあ、フェリクス。いつの間にいらしたの?」
「今、来たところですよ、マルグリット」
妻に近付き、頬にキスをする。
ついで息子のふくふくした頬にもキスを送ろうとすると…
「いやー!とーしゃま、いやー!」
強烈に拒否された。
「コンラート、お父様に失礼ですよ!」
「いやー!あっちいってー!」
妻と息子の乳母が言うに、これはイヤイヤ期というものらしい。
イヤと思っていなくてもイヤと言ってしまう時期なのだと説明されている。
母のドレスをギュッと握って、父に向かい無礼を働く息子を叱るべきか、笑って許すべきか。
途方にくれて、床に丸くなった幼子を無言で見下ろす。
マルグリットが困った顔でコンラートを乳母に渡すと、乳母はコンラートを抱っこして逃げるようにテラスを出ていった。
「すぐにコンラートにもあなたがどんなに素晴らしいお父様かわかりますわ」
マルグリットが肩をポンポン叩いて慰めてくれる。
女性は子どもを生むと人が変わったようになる、とはよく言われるが、二人の子どもを持ってもマルグリットは何も変わらない。
心優しく、寛容で。
感情豊かで、情に厚く、責任感が強く、賢い。
時々意固地になり、時々わがままで、時々甘えたがりな、私の愛しい妻である。
夫婦二人でソファに横並びに座り、使用人が運んできたコーヒーを飲む。
「いちごは来週には収穫できそうですよ」
「アンネリーゼが育てたいちごは美味しいでしょうね」
「アンネリーゼはいっぱいのジャムにして“お父様にも少しさしあげる”と言っていました」
娘の口振りを思い出して笑うと、マルグリットも青い瞳をキラキラさせて笑った。
「まあ、あの子ったら。実際畑の世話をしていたのはあなたですのにねえ」
「そんなことはありませんよ。アンネリーゼは本当に根気よく世話をしていました。あの歳にしてあそこまで、なかなかできません」
「確かにあの子、すごく根気強い時がありますわ。フフ、あなたに似たのですわね」
マルグリットにそう言われて嬉しく思う。
クレーベ一族といえば根気強いことで知られている。
アンネリーゼもその血を継いでいるのだ。
コーヒーを卓に置き、妻に体を向けた。
「マルグリット。アンネリーゼと二ヶ月くらいクレーベに帰りたいと思っているのですが」
彼女はパチパチとまばたきをし、それからけんもほろろに言った。
「無理に決まってるではありませんか。クレーベまで馬車で4日かかるのに、アンネリーゼが耐えられるわけがありません」
「大丈夫です。宿も手配して、負担のないようにゆっくり参りますから」
「何日もじっと馬車に乗っていられない、と言ってるのです」
「馬車の中で勉強したり、遊んだりしていれば…」
「大丈夫なわけないでしょう?家の中でもじっとしていられない子が」
わかりきったことを言わせないで、とマルグリットは呆れ顔で言った。
確かにクレーベまでの道のりは大変かもしれない。けれど幼子が何日もかけて旅をする話はよそでも聞く。行ってしまえばどうにでもなるだろう。
そしてクレーベに着いてからの経験は娘にとって得がたいものになるはずだ。
「アンネリーゼがクレーベの収穫前の麦畑を見たいと言うのです。ですから秋までに連れていこうと約束したのです」
「は?何、勝手なこと!」
「夏の終わりに行って、収穫を見せて、その後の収穫祭まで見られれば、アンネリーゼにも良い思い出になるでしょう」
「‥‥‥」
「あの子ももしかしたら将来クレーベの領主になるかもしれないのです。今のうちにクレーベを見せておきたいのです」
マルグリットははあ、とため息をついて首を横に振った。
「あなたの気持ちはわからないではありません。けれど4日の馬車旅に、初めての土地に二ヶ月の滞在。どう考えても無理ですわ。辛い思いをするのはアンネリーゼです。まだクレーベに連れて行くには早いんですわ」
「では、いつならいいのです?あなたが3人目を妊娠すれば、少なくても1年半は私も遠出できません。そしてあと2年半でアンネリーゼは学校に行ってしまうのですよ。収穫前の時期に行こうと思えば、今年を逃したら次はいつ行けるか…」
「‥‥‥そうかもしれませんが」
私の必死の訴えに、マルグリットは額に拳を当てた。
これは妻が考えをまとめようとしている時の仕草だ。
畳み掛けるように言う。
「ぜひアンネリーゼが幼い内にクレーベの大地を見せておきたいのです。あの子は才能がありますから!」
「才能?」
「あの娘はあの小さな指で、立派に種を植えたんですよ。そして半年間飽きもせず畑を世話をしたのです。クレーベを治める才能は充分です」
熱く語ると、マルグリットはものすごく嫌そうな顔で私を見た。
これが親ばかってやつなのね、と呟くのが聞こえた。
親ばかで何が悪いか。子の可能性を信じるのが親の役目であろうに。
マルグリットはぺしりと膝を叩いた。
「とにかく。無理なものは無理ですってば!あなたはもう少し冷静に考えなさいませ!」
「ですから…、むっ」
言い返そうとした口を手で塞がれる。
「これ以上お話しても時間の無駄ですわね。わたくし、コンラートの様子を見て参ります」
マルグリットは逃げるようにテラスを出ていった。
妻の逃げ癖はいつになったら治るのか。
※※※
夕食の席はいつもどおり賑やかだった。
「これ、きらいって言ってるのになんで出すの?リョウリチョウを呼んで!」
アンネリーゼがマセた口調で文句を言えば、向かいの席では
「おにく、やっ!パンたべう!」
コンラートがお肉を食べさせようとする乳母の手を弾く。
「アンネリーゼ、わがまま言わないの!こら、コンラート。お肉も食べて」
マルグリットが自分も食べながら忙しく叱る。
私はそのいつもながらの様子を見ながら、のんびり食事を口に運ぶ。
よっぽど度を越したことをすれば私も叱るが、基本的には見守るスタンスでいる。
子どもたちが好き勝手なことを言いながら、一生懸命もぐもぐ食べる姿を見ているのが、私は好きだ。
たくさん食べて大きくなれ。
ふと自分の幼い頃のことを思い出す。
クレーベでは、子どもは礼儀を学ぶまで当主と同じ食事の席につくことはできなかった。
代わりに子ども用の食事部屋で、乳母の息子やいとこたちと一緒に食べていた。
そう言えばあの食事部屋の騒ぎは、アンネリーゼとコンラートの比ではなかったな。
何せ四六時中フォークやパンが宙を舞っていた。
それはそれで楽しい時間だったが、祖父や父と食事をとれるようになると、急に大人になったようで嬉しかったものだ。
アンネリーゼとコンラートも数年もしない内に、礼儀を覚えて、大人のように振る舞うようになるだろう。
この騒がしさは子どもたちが大きくなるまでの今だけのもの。とてつもなく貴重な時間に思える。
「あら、アンネリーゼが寝かけてますわ!」
「お!?アンネリーゼ、またか。ほら最後まで食べてしまいなさい」
「もう駄目そうですわね。誰かアンネリーゼを部屋に連れていって」
使用人のひとりがアンネリーゼを抱っこして食堂を出ていった。
「コンラートは…お昼寝したから元気そうだな」
小指の爪ほどのサイズに切ったお肉をごっくんして褒められたコンラートは、ご機嫌でパンを口に詰め込んでいる。
「今日も夜ふかしになりそうです」
乳母が困った顔で言った。
明るく賑やかな時間はまだ続く。
※※※
主寝室に入ると、すでにマルグリットは寝台に入り、背を向けて丸くなっていた。
これは“あなたとお話したくありません”のポーズだ。
マルグリットがこの邸に主寝室を作ったのは、妙案だったと思う。
すれ違いや気まずさがあっても、夜には必ず同じ寝台に入れる。
度々訪れる夫婦の問題をこの寝台の上で、いくつも語り合い解決してきた。
寝台に横たわり、後ろから抱きしめる。
「機嫌を直してください」
「‥‥‥別に機嫌が悪いわけではありません。ただあなたの無茶を聞きたくないだけですわ」
「アンネリーゼをクレーベに連れていくことなら、無茶とは思ってませんよ」
「でしたら、あなたが諦めるまで、わたくしはずっとこのままですわ!」
「それは困りました」
少しだけ力を入れてマルグリットの肩を倒すと、いとも簡単にコロンと仰向けになった。
一応抵抗はしたようだが、彼女は力がなさすぎる。体は細く柔らかく、力加減を間違えば簡単に壊れてしまいそうだ。
女性とは皆こうだろうか。
「無理だと決めつけないでください。領を治める時は、無理で片付けず、どうしたら可能かと考えるでしょう?これも一緒ですよ」
私の説得に少し考える素振りを見せたあと、聞かれた。
「…あなたはアンネリーゼをクレーベの領主にしたいのですか?」
私は苦笑した。
「そうなれば素晴らしいことですが。今はただ娘と一緒に故郷を見たいと夢見ているだけなのです。私の夢を叶えて下さいませんか?」
「ずるいですわ、そんな言い方」
私のクレーベへの思いを知っている彼女は拗ねたように言う。
「本当はあなたとコンラートも連れて行きたいんです。けれどそれこそ現実的ではありませんから、またの機会にとっておきます」
マルグリットと共に見るクレーベはどんな色をしているだろう。
丘から見る夕陽。滔滔と流れる恵みの河。
渡り鳥の群れ、虫の声。
今年もよく育った、とクレーベ城から見下ろす黄金色の麦畑。
整備された道ばかり歩いているマルグリットには、クレーベは歩きにくいかもしれない。
丁寧に手を引いて、ゆっくり歩こう。
先祖の地にこれが私の妻だと見せて歩けば、どれほど誇らしいだろう…
はあ、とマルグリットがため息をついた。
「わかりました。あなたがどーしても折れないことが」
そう言いながら手が近づいてきて、頬の肉をむにっと抓まれた。
「にゃにしゅるんでう?」
「本当にアンネリーゼに無理のないように行って、何事もなく無事帰ってこれるんですね?」
「もちにょん」
「あなたがそうまでおっしゃるなら…信じますわ。行ってらしてください」
頬の手が外れた。
突然与えられた許しに拍子抜けする。
説得に数日はかかるつもりでいたのだ。
「‥‥‥どうしたんです。あれほど反対してたのに急に意見を変えて」
「…よろしいんですよ?行かなくても」
「行きます」
マルグリットは困った子どもを見るような目で私を見た。
「…まあ、娘に故郷を見せたいあなたの気持ちもわかりますし。あなたも一度くらい里帰りするべきだと思ってましたし。お義父様に孫と合わせてあげたいですし。
あなたが大丈夫と仰るなら…あなたを信頼してますから」
さっきつままれた頬を今度は優しく撫でられた。
胸が幸福感でいっぱいになって寝台の上で身を起こす。
ああ、やはり私の妻は素晴らしい。
いつだって“あなたがそういうのなら”と言って私のわがままを叶えてくれる。
「マルグリット…」
妻に覆いかぶさって口づけをすると、細い腕が私の背中に回った。
唇を離し、吸い込まれそうな碧玉の瞳とみつめあう。
「ありがとうございます。必ず無事に行って参ります」
「あなたは仰ったことは守る方ですものね」
マルグリットが微笑む。
なんて愛おしい妻だろう。
もう一度口づけて、そのまま手を寝間着に進めると、ペしりと叩かれた。
「クレーベに行かれるのでしょう?今妊娠したら困ります。クレーベから帰るまでお預けです」
「‥‥‥っ!」
私は衝撃を受けた。
「今は春で…クレーベから帰るのは秋半ば…まさかそれまで、なしですか?」
「当たり前ではありませんか。クレーベに行くなら子作りは中止。子作りするなら、クレーベの話はなしです。さあ、どっちを選びます?」
マルグリットは意地悪な顔で、究極の選択を迫った。
※※※
「おかあさまが行かないなら、わたくしも行きませんー!馬車だいっきらーい!クレーベなんて行きたくないですぅ!いやってばいやぁぁぁ」
アンネリーゼに激しく拒否されるのは翌日のこと。
妻の「ほら見たことか」という冷たい視線に心が折れそうになった。
別キャラ視線のお話も考え中です!




