クレーベと畑とフェリクス
アダルベルトからクレーベへ送った者たちからは5日に一度のペースで報告書が届く。
それを執務室ではなく、自室で読むのはフェリクスに見せたくないから。
きっとフェリクスは報告の内容にいちいち心乱すだろうし、それを自分の内に抱え込むだろうし。
もうこれ以上夫婦ですれ違いはゴメンだもの。
そんなわけでフェリクスから隠れるように、私室の文机で報告書を開いた。
文章は今のクレーベの様子を伝えるところから始まっている。
『夏を迎えた今の時期、城壁を囲むように青々しい実りがどこまでも広がり圧巻である。
農民たちは畑の世話に日々勤しみ、今のところ天候にも恵まれ、今年の収穫量は去年を超える予想。
しかし城から離れると、かつて畑だった荒地が広がっているのがあちこちで目につく。
そしてクレーベ城内や門の辺りには行き場のない領民たちが集まり、惨憺たる有様。
誰も世話するものがおらず、日々餓死者が出ている…』
報告は続く。
先日は畑に必要な水がうまく届かないことで、農民同士の紛争状態になったようだ。
その際は監督官と呼ばれる者が調整に努めたが、数名の死者が出る結果になった。
この事件を見るに、非常事態に誰に指示を扇げばいいか、誰もがわかっていない。
指揮命令系統のようなものがない為と思われる。と、これを書いた調査員は分析している。
秋の収穫時期を迎える前に、管理態勢を整えなければ大混乱が予想される、と文章は締めくくられていた。
報告書を読み終え、額に拳を当てた。
いやー。もうすでに大混乱の様相じゃない。
この監督官とやらがフェリクスが土地と資金を返還したという者なのかしら。
あまり力があるように思えないけど。
とにかくクレーベの状況は放っておけない。
何らかの支援がいる。
アダルベルトとしてできることは…
ペンを手に取り、すべきこと、できること、注意すべきことを紙に書き出してみる。
やりすぎると王宮から権利侵害と言われるわね。さじ加減が難しいわ。
…王宮からクレーベに行く官吏はまだ決まらないのかしら。
まあ、印章偽造の始末がつくまでは都合がいいのだけど。
考え考え書いていき、ふぅと息をつく。
フェリクスに関わらせないかわりに、わたくしがしっかり対応をしなければいけない。
いえ、本当はフェリクスに相談するべきなのはわかってるけど。
けれどもしも。
クレーベの惨状を知った彼が、わたくしの前に跪いて…
「どうか、私がクレーベに行くことをお許しください」と懇願してきたら。
…ああ、すごく想像できる!目に浮かぶわ!
というか、絶対言うわよね!
その時わたくしは「許しません」ときっぱり言えるかしら。
※※※
一仕事終えて部屋で休んでいると、開け放たれた窓の外から馴染んだ声がする。
午後の陽射しが木立ちの影をつくる頃。
フェリクス親子が庭師と使用人を連れて庭を歩いていた。
「どこに行くのかしら」
「畑ではないでしょうか。先程庭師がエドウィン様に畑のことで相談していましたから」
コーヒーを持ってきた使用人が教えてくれた。
「エドウィン様はこの邸に厄介になるばかりは申し訳ないと仰り、何か役に立てることはないかとお尋ねでした」
尋ねられた使用人は、“クレーベの方ならきっと畑に詳しいだろう”と単純に考え、今年の庭の野菜が育たないことを相談したらしい。
昨今の庭にはちょっとした畑があるのが普通だ。我が家はトマトやきゅうりなど暑い時期に採れる野菜を作っている。
「それで直接畑を見てみようということになったのね」
「そのようでございますね」
「ちょっと見に行ってみるわ」
行ってみると、エドウィンとフェリクスはなんと畑に直接しゃがんで土を触っていた。コートの裾が地面に完全に触れていて、ヒエーと心で悲鳴を上げる。
「土は良さそうだよねー」
「やっぱり今年は雨が多かったせいで、根がやられてるのでしょうか」
「ひとつ抜くよ」
エドウィンが無造作に葉を土からずぼっと抜いた。
横で見ていた庭師が「私も根を見たのですが、腐ってる様子などはないのです」と覗き込む。
「見て、これカビだよ。ほらここ、これがカビ」
エドウィンが根っこの一部を指して言うと、フェリクスが難しい顔をした。
「これはここらへんの畑の土を全部返した方がいい。根は洗って新しい土に植え替えて」
「洗うのですか?」
「そうそう、水でじゃぶじゃぶと」
エドウィンとフェリクスが土や野菜の根を触りながら、身ぶりまで混じえて庭師に教える。
ふたりとも畑に馴染みすぎだ。まるで畑で生まれ育ったかのよう。
クレーベの領主一族は、皆こうなのかしら。
エドウィンはともかく。わたくしの麗しい夫が今は農民にしか見えない。
にしても、いつまでも誰もわたくしに気が付かないので、こちらから声をかけることにした。
「畑はいかが?」
「ひゃあ、こ、侯爵!」
驚いたエドウィンが焦って立ち上がろうとして、尻もちをつきそうになり、さっとフェリクスが支えた。
「し、失礼を…」
「何故わたくし、そんなに怯えられてるんでしょう…」
フェリクスに抱えられたエドウィンを呆れて見る。
「あはは、少しびっくりしただけです」
エドウィンはちゃんと自分で立ち直し、パンパンと手を叩いて土を落としてからすっと一礼した。そうすると急に貴族っぽく見えた。
「畑のことで相談にのっていただいたようで、助かりますわ」
礼を言い、畑を見た。
色鮮やかな花々と青々しい葉が目を楽しませる我が邸の庭。
その庭の中で畑の一角だけがやたらに茶色い。
今掘り返されていた土からは毛虫でも出そうだし、おまけに何か湿ったような匂いがする。
畑ってこんな風だったかしら?
ここから早く離れたい、そう思った。
「お話は終わりましたの?」
「はい、お二人に教えていただいたようにしてみたいと思います」庭師が答えた。
わたくしはフェリクス親子を見る。
「これからお茶でも、と思っていますが、ご一緒にいかが?」
エドウィンがブンブン首を振って「私は結構です。フェリクスと2人でどうぞ」と言う。
フェリクスはにっこり「喜んで」と言い、エスコートの手を出そうとしてはっと引っ込めた。
「失礼致しました。このとおり汚れておりますので、着替えなければいけません。お時間いただいてもよろしいですか?」
「…ええ、かまいませんわ。テラスで待っています」
フェリクスが、では、と早足で邸に向かう。
その後ろになびくコートの裾が土で汚れているのが、すごく気になった。
フェリクスは素晴らしいスピードで着替えてテラスにやってきた。
焦げ茶の生地に金糸のラインが入ったコートとベストは、アダルベルト領の工場で作らせたものだった。
控えめに言って、すごく似合っている。フェリクスの持ち衣装の中で断トツだと思う。
お茶を勧めると、コーヒーを一口すすり、優雅に菓子をつまんだ。
庭からやってきた風が白金色の髪をさらりと揺らす。
さっき農民みたいに土を弄り回していた人には全く見えない。
「お義父様と仲良くされているようでよろしかったこと」
「…ええ、おかげさまで」
フェリクスがはにかむように言った。
「先日のお話を聞いてしまうと…親孝行なさらなくてはいけませんわね」
「はい、そう思っています」
その目には暗雲が晴れた後のような清々しい光があった。
ずっと何もしてくれなかった父親に失望を重ねてきたフェリクス。
けれど実は父親なりに息子を助けようと努力していたこと、その愛情を知った。
失望は一気に昇華されて、今は父親を慕う気持ちだけが渦巻いているのが伝わってくる。
ちょっと単純過ぎるんじゃないかしら。やっぱりあの父親がしっかりしていれば、フェリクスが苦しむことはなかったのだもの。
父親の思いを知って嬉しいのはわかるけど。
「親子が仲良いに越したことはありませんわね…」
「はい、マルグリットのおかげです」
フェリクスは輝くような微笑みを見せた。
全ての憂いは失せた、とでもいうように。
…これまでわたくしがあなたに何をしてもそんな笑顔は見せなかったくせに。
面白くない気持ちでコーヒーに口をつけると、少し冷めたせいか苦味が強く舌を刺した。
一口でカップをソーサーに返す。
顔を上げると、じっとわたくしをみつめるフェリクスと目が合った。
…どうしたのかしら。妙に瞳がキラキラして、溶けてしまいそうな飴色になっているけど。
「マルグリット。お礼を言わせてください」
フェリクスは唐突にそんなことを言った。
「何のお礼かしら?」
エドウィンのこと?偽造印章の件?裁判のこと?それとも…
あら、お礼を言われる心当たりならいっぱいあるわ。
けれど、フェリクスが言いたいことは違った。
「私は恥ずかしい勘違いをしていて…あなたに何度も酷い態度をとってきました。けれどあなたはいつも私を許し、受け入れてくれました。そのことにお礼を」
「…はい?」
予想もしなかった的外れなお礼に目が丸くなった。
「わたくしは何でも許してなんていませんわ。けっこういろいろ怒ってるのですけど?」
そう。わたくしはフェリクスに対していろんなことに腹をたててる。なのにそれを本人は許されたと考えてたなんて。
「いいえ、あなたはいつも寛容でした。私を追い出したりしなかったでしょう」
追い出されなきゃ、怒ってないと?
寛容の基準がおかしい。
「…夫を追い出したりしませんわ」
フェリクスはわかってますよ、というように頷いた。
「ええ、あなたはずっと私に夫だと言い続けて下さいました。いつも私を夫として大事にすると言って下さった。やっとそれがどれほどかけがえない幸せなことかわかったのです」
フェリクスは目を細めて、夢見るような表情で言った。
頬がうっすら赤くなって、どことなく艶めかしい。
そんな表情でじっとわたくしから目を離さないので、わたくしの方が恥ずかしくなって目をちょっと反らした。
…なんだっけ。
夫として大事にされることが幸せだとわかった?
「そう、良かったですわ…」
適当に返すと、フェリクスは更に頬を染めて、こう言った。
「私は浅ましくも、今以上にあなたに夫として扱われることを期待しているのです」
フェリクスらしくない婉曲な言い方に首を傾げた。
何を期待してるって?今以上に夫として?
よくわからなかったので、素直に尋ねる。
「つまり何かわたくしに望みがあるということですわね?何かしら」
フェリクスはあれ?という顔で、目をパチパチさせた。
前髪を掻き上げて、何やらもごもご言った。
「すみません。…言い方がよくありませんでした。つまり、何と言えばいいか…、あなたと夜を…」
よく聞こえない。
なにかしら。そんなに難しいことなの?
そう疑問に思い、ポンと心当たりを思いついた。
もしかして。
フェリクスがわたくしに望むことって。
「…クレーベのこと?」
「はい?」
わたくしのかすれた吐息のような声はフェリクスまで届かなかったようだ。
クレーベに帰りたい?
それともクレーベの領主になりたい?
そんな望みなら聞きたくない。
言わせては駄目だわ!
「あ、あら。お小遣いを増額してほしいというおねだりかしら?そうですわよね!あれだけ執務をお任せできるのですもの。もう少し額をあげるべきでしたわ!ホホホ」
わたくしの怪しい誤魔化しに、フェリクスは驚いたように否定した。
「…いいえ。充分過ぎるほどいただいています。そういうことではなく…」
「お食事の量が足りない?意外にフェリクスは健啖家ですわよね」
「いいえ、食べきれないほどご用意いただいています」
「まあ、でしたら…」
フェリクスの戸惑ったような表情が、だんだん落胆に沈んでいった。
「…わかりました。マルグリットはこの話をしたくないのですね」
「‥‥‥っ」
ああ、思いっきりわたくしの意図がバレてる。
恥ずかしさにカーと頬が熱くなった。
「困らせるつもりはなかったのです。忘れてください」
そう言ってフェリクスはお得意のにっこり笑顔を見せた。
「あなたが望まないことは私も望みません。ですからどうかこれからもお側に置いてください」
「あ…」
フェリクスはまさに、わたくしの望みどおりの言葉を言ってくれた。
なのに、何かを失ったような、とてつもない失敗をしたような気がした。
フェリクスくんは一世一代の告白のつもりでしたが、マルゴに通じませんでした。残念。
マルゴは逃げ癖がありますね。
次回はマルゴがうじうじします。




