祝杯
とは言うものの、わたくしは忙しい。
季節は夏に差し掛かろうとしている。
夏は宮中の各省各部が一年の報告を出す時期なので、宮中で働く者はバタバタと忙しくなる。
わたくしも王宮へ参内する日が続いた。
フェリクスはその間、当主代理として侯爵家の執務をしてくれていた。
領内から日々やってくる陳情も厄介事も、わたくしが家に帰る頃にはフェリクスによって解決している。もしくは解決案を見せられて、許可するだけになっている。
机に積まれているのが当たり前と思っていた書類はすっきり片付いて、わたくしの直筆が必要なものだけがわかりやすく置かれている。
あまりの有能さに我が家の事務方の者たちも焦っているが、あれは仕方ない。
フェリクスは頭の作りが凡人とは違う。
なるほど厳しい状況のクレーベをひとりで10年も管理できるわけだ。
こんな逸材をアダルベルトで独り占めすることに罪悪感を感じるほどである。
効率的な執務というものをわたくしもフェリクスから学びたいと思う。
※※※
明日は安息日というその日。
宮中の役目が一区切りし、わたくしは昼過ぎに邸に帰った。
「今日は我が家の予算も確認して、あげてしまいましょう!」
張り切って執務室の大きな机の前の椅子に座る。
「こちらが計画案。こちらが出来上がった予算表です」
フェリクスがさっと紙を机の上に広げてくれた。
領地の今年の予算は事務方とも何度も議論し、すでにほとんどのことは決まっている。
それをフェリクスがより詳細に完成させてくれていた。
去年までのものより数字がすっきりして見えるのは、気のせいじゃない。
フェリクスが数字を扱うと、まるで魔法のようにあちこちの数が揃っていくのだ。
「これはどうして…」
「はい、これはこちらを優先して…」
「ここの問題は解決したのかしら…」
「それは次に書いてあるとおり…」
何を確認してもフェリクスがさっと資料を出して説明してくれるので、いちいち事務方を呼ぶ必要もない。
そして手直しできるところはほとんどなかった。
「…良いでしょう。これで決定とします」
最後にぎゅうと印を押した。
「終わった…こんなすんなり…」
去年の予算が決まるまでの混乱を思い出して、信じられない気持ちになった。
功労者であるフェリクスを見上げる。
「あなたのおかげですわ。わたくしの夫はなんて素晴らしいんでしょう」
「お役にたてたようで良かったです」
フェリクスは穏やかな声で答えた。
「最近あなたに頼りっきりですわ」
「大切な仕事を任せていただけるのは嬉しいです。もし私にできることがあれば何でも言ってください」
柔らかく微笑んだフェリクスは、ずいぶん肩の力が抜けているように見えた。
以前のような、“決して出しゃばってはいけない”と常に自分を律するような固さが、ここ最近は薄れてきている。
執務に関わる内に、この邸にもやっと馴れてきてくれたのかしら。良かったわ。
わたくしはうんうんと頷いた。
「ねえ、今日は祝杯をあげたい気分ですわ」
「お酒ですか?珍しいですね」
「あんまり飲めませんが、気分なのですわ!フェリクスも一緒にいただきましょう?」
わたくしはるんるんと言った。
今日なら行ける気がする。
というわけで、その日の夕食は我が家には珍しくお酒が供された。
「フェリクス、お酒強かったのですね」
「そうでしょうか」
まるで水を飲むようにカパカパ飲んで平然としている。
わたくしはワインをグラス1杯飲んだだけでくらくらしてくるのに。
レグとエリーはわたくしたちがお酒を飲むのを興味深そうに見ながら、早々に食事を終えた。
“後はお二人で”、と言い置いて二人揃って食堂を出ていく。
そんな期待の眼差しで見ないで、レグ!
二人きりになった食堂で、高鳴る心臓の音を押さえ、冷静な振りをして言う。
「フェリクス、今晩は…」
「はい?」
「…良い気分ですわね」
「はい、そうですね」
ああ、わたくしの意気地なし。
ねえ、フェリクス。あなたいつも察しがいいじゃない。わたくしの言いたいこと、わかってくれないかしら。
フェリクスはわたくしを見て困ったような顔になった。
「マルグリット、顔が真っ赤になっています。もうお部屋で休まれた方がいいのでは」
その顔を見て“あ、この人わかってるわ”と直感的に思った。
わかってて、知らない振りしてるんだわ。
「…そんなに飲んでませんわよ?」
「お酒の適量は人それぞれですから」
そんなつまんない言葉が聞きたいんじゃなーい!
わたくしの誘いを気づかない振りで通す気ね。
絶望的な気持ちでゴン、とテーブルに突っ伏した。
「マルグリット、部屋まで送りますから」
心配そうな顔をしたフェリクスがテーブルを回ってきて、わたくしの手を取った。
もう今夜は駄目だ、と悟ったわたくしはしおしおと椅子から立ち上がる。
すると彼の右手はわたくしの右手を支え、彼の左手はわたくしの肩を抱いた。
あら。ずいぶん親密な姿勢だわ。
何だか暖かくて安心するわね。
素直にフェリクスに体重を預けて廊下を歩いた。
階段を上がって二階に上がる。右に行けばフェリクスの部屋。左に行けばわたくしの私室。
普段はこの階段を登ったところで両手に別れるわたくしたちだけど、今日のフェリクスはわたくしを放さず、左へ曲がった。
わたくしの部屋の前につくと、フェリクスの右手がドアを開けた。
「さあ、部屋につきましたよ」
くっと肩を抱く手に力が入った。
はっとして、至近距離にあるフェリクスの顔を見上げると、彼は薄茶色の瞳いっぱいにわたくしを写していた。
こんなにキラキラした瞳でみつめられたことはないと思う。
心臓がドキドキと逸りだした。
このまま部屋に入れば、寝台にはふたつの枕が待っている…
フェリクスはいつもの優しい微笑みを浮かべ、ふいっと廊下の方を見た。
「彼女は少し酒に酔っている。よくお世話差し上げるように」
「え?」
見ると廊下には女性使用人が立っていた。
たぶんたまたまそこにいただけなのだろう。フェリクスに指示され彼女は戸惑った顔だ。
「は…かしこまりました、フェリクス様…」
使用人の立場ではそう言うしかない。
フェリクスはわたくしの頭を軽く撫でた。
「では、マルグリット。おやすみなさい。良い夢を」
違うでしょ、フェリクス。
使用人の“そのまま二人で寝台まで行っちゃえばいいのに”、て顔見えないの!?
フェリクスは使用人を部屋に入れると、自分は廊下側からドアを閉めた。
パタン。
あっけなく閉まったドアは、睨みつけても再び開いたりしなかった。
使用人に手伝ってもらい着替えをして、今日も枕がふたつ用意された寝台にひとりで入った。
「…明日から枕はひとつにして。いい?」
「は、はい!」
もう本当の夫婦になれる気がしない。
※※※
明るい陽射しの差し込む私室で、一枚の絵を壁にかけた。
それは笑っているわたくしの胸像画だった。
写実的ではない。油絵の具で色をいくつも重ねて描かれたそれは輪郭が曖昧で、柔らかく優しい。
そしてその少しぼやけたわたくしの顔には何故か猫のものらしき耳とひげがのっている。何故猫?
油絵を描くのが好きだと言うエドウィンに画材を与えたら、描いてくれたのがこれだ。
不思議な独特の雰囲気があって、エドウィン
らしい絵だと思う。
「マルグリット様、コーヒーとお菓子をお持ちしました」
「ありがとう」
使用人がチェリージャムのクッキーとコーヒーを持ってきてくれた。
今日は外出の予定もないし、執務もお休み。
私室で窓の外を見ながら、ぼんやり考え事をする。
こういう日も必要よね。
考えるのはフェリクスのこと。
「やっぱり主寝室を作ろうかしら」
アダルベルト城にいた時が1番フェリクスとの距離が近かったと思う。
最近はもう頬へのキスもしていないし、されない。
コーヒーを啜って、クッキーをポリポリ食べる。
今頃フェリクスは何してるのかしら。
呼んだら来るかしら。
そんなことを思いながら、庭を見ていると
「あら…」
ローズガーデンの道に立っているエドウィンとフェリクスを発見した。
天気が良いから、散歩をしているのね。
そう思ったけど、二人はその場を動かず立ち話をしている。
遠くてさすがに声は聞こえない。
「あの二人どんな会話をするのかしらね」
頬杖をつき興味深く観察していると、二人の身振り手振りが大きくなっていき、何か口論を始めたようだ。
どうやらエドウィンがフェリクスを叱りつけている。
あのエドウィンが、あのフェリクスを!
そしてエドウィンはフェリクスの腕を掴んでローズガーデンを出て、邸に戻る様子だ。フェリクスは逆らわず引っ張られるままに歩いていく。
「あらあら、まあまあ。何事かしら」
それからほんの数分後、部屋がノックされた。
ドアを開けると、フェリクス親子が立っている。
いつもほわほわしていて、気弱そうに目を伏せるエドウィンが、強い目でわたくしを見た。
「息子がとんでもないことをしたようで、ご相談させていただきたいのです!」
「フェリクスが?」
エドウィンの後ろに立つフェリクスは項垂れている。これはただ事ではない。
次回更新は火曜日の予定です。




