フェリクスの後悔②
思えば、マルグリットの部屋に入るのは結婚式の日の夜以来だ。もぬけの殻だった部屋。
使用人がぐるぐる回って主人を探したのだったと懐かしく思い出す。
今は朝。広い窓は大きくカーテンが開け放たれ、部屋中が白い陽光に満たされていた。
木目を見せる上品な家具が並び、柔らかそうなアイボリーのラグが床に敷かれている。
壁にはいろんなタッチで描かれた人物画が飾られていた。
二人の妹や、両親らしき男女、犬や、レイビックとカトリナの顔もある。
家族想いの彼女らしい。
マルグリットは不機嫌な顔と口調で、窓横に置かれたひとり用の椅子を私に勧めた。
そして自分は文机の前の丸椅子に座り、腕を組んだ。
「よく眠って、落ち着かれたようですわね」
「大変申し訳…」
「わたくし謝られるのが嫌いですわ!」
謝罪をしようとすれば、ピシャリと遮られた。眉を吊り上げ、じろじろと私の顔を観察する。
「顔色は戻りましたわね。よろしかったこと」
「はい、ご心配をおかけ致しまして…」
申し訳ありません、と言いかけて、すんでで止めた。
「ホホホ。やっとまともにお話が出来るというわけですわね」
高飛車にホホホと笑うのを聞いて、私に対してずいぶん神経を尖らせているようだ、と思った。
あの夜の私の数々の失言が、さぞ彼女を悩ませ、苦しめたに違いない。
「それで?」
促され、持ってきた後見人の証書を広げる。
「マルグリット、感謝しています。父を助けて下さってありがとうございます」
マルグリットはプンと顔をそむけた。
「無理してお礼を言って下さらなくて結構ですわ」
「いいえ、マルグリット。本当に感謝しているのです。あの夜の私はどうかしていました」
「いいえ、嘘」
睨みつけられた。
「あの夜言ったことが本心でしょう?いつもあなたは自分の気持ちを隠してばかりですけど、あの夜はつい本当のことを言ってしまったのでしょう?」
そう言って彼女は唇をくっと噛んだ。
「‥‥‥」
苛立ちに任せて自分が何を言ったかはちゃんと覚えている。
気が違っていたとしか思えないが、あれは本心ではありませんでした、なんて言って信じてもらえるはずがない。
「…ねえ、誤魔化しはいらないのです。あなたが何を考えていて、どうしたいのか、ちゃんと聞かせてください。でないと、わたくしどうしていいかわからないのですわ」
真摯な口調でそう言われ、胸を突かれた。
私が自分のことをあまり話さず、気持ちを明かさないことを、マルグリットはずっと案じていたのだ。
ああ、ちゃんと話すべきだ、そう思った。
自分の気持ちを語ったことなんてない。
苦しい想い、どうにもできない現実、息ができなくなるような不安も、これまでずっとひとりで飲み込んできた。
それが当たり前だと思っていた。
けれどこの人には打ち明けてさらけ出すべきなのだ。
「そうは言っても、何から話せばいいか…いえ、」
私は覚悟を決めた。
「では昔話から。あまり気持ちの良い話ではないと思いますが、聞いていただけますか?」
「…ええ、聞きます」
マルグリットは強く頷いた。
彼女に差し出そう。私の過去も隠したかった欺瞞も。
※※※
父への複雑な感情。義兄や義母への憎しみ、私がこれまでどう生きてきたか。それを伝えるには、まずクレーベのことを話さなければいけない。
目を閉じれば、すぐに瞼に浮かぶ一面の麦畑。
「私が祖父からクレーベ伯爵家の跡取りとして教育されたことは知っていますか?」
マルグリットは頷いた。
物心ついた頃には畑の土をいじっていた。
麦が育つ横で、農民の子どもたちとじゃれ合い、虫をはじき、鍬の扱いを学んだ。
そして机の上で、今年の取れ高を数字で見て、地図を広げ作物が領地を、国中を巡る様子を想像した。
クレーベの領主になる以外の未来があるとは、思ったこともなかった。
「けれど祖父亡き後、クレーベを継いだ父が義母の罠にかかり、義兄に領主の座を渡すことになったのです」
「…義母の罠というと?」
「父が他領地との取引のことで困っていた時に、義母から紹介された男の手を借りたそうです。その男が実は国王陛下の直属政務官でした。父は国王直属の官を許しなく使役したと責められ、養子に全てを譲れば罪を許そうと強迫されたそうです」
「まあ、そんな手口が。お義母様はなかなかな伝手をお持ちで」
マルグリットが感心したような声を上げるが、私はその話を聞いた時、あまりの父の不甲斐なさにへたり込みたくなったものだ。
大体その男が本当に国王の専務官だったかさえ、わからない。
「こうして義兄がクレーベの領主になりましたが、平民出身の彼や義母がまともに領地を治められるはずがない。好き勝手に領地をいじり、奪えるものを奪い、クレーベの親族分家を潰していった。結果、領地は大混乱に陥り、収穫量は落ち込み、他領からは苦情が押し寄せました」
冷静に話そうと思いながら、つい憎々しげな声になった。
めちゃくちゃにされたクレーベの事を思い出すと、悔しさに拳が震える。
「義兄と義母は王都に逃げました。そして私が領地の管理をすることになったのです」
その時私は14歳。
例え領主を継げなくても、クレーベは私のものだと思っていた。
私が立派にクレーベを統治してみせよう。それが自分にはできると思い込んでいた。
「けれどあらゆるものが足りない。領主の許可や権限。資金。すぐに領地経営は行き詰まり、私は王都まで片道3日馬を走らせ、義兄の足元に跪いて、こういうものが必要なのです。領主様の慈悲をくださいと嘆願しなければいけなかった」
話を聞いていたマルグリットの眉が寄った。
こんな惨めな自分の話をすることは恥ずかしい。
けれど聞いてもらいたいとも思った。
義兄と義母への私の憎しみがどれほどか、吐き出してしまいたい。共感してもらいたい。
そんな思いが湧き上がる。
「必死にあがき続けた10年でした。何とか領地を正常な状態に戻さなければと。それはとても苦しい日々でしたが、クレーベの為と思えば満足感もあった。領地の全てを背負っているという自負がありました。人生全てをクレーベに捧げる覚悟でした」
マルグリットはわかりますよ、というように頷いてくれた。
それを嬉しく思う。
と同時に疚しいような気持ちにもなった。
私は彼女の優しさを受け止められなかった。
そのことをこれから白状しなければいけない。
「クレーベに心を残しながら、アダルベルト邸にやって来た私に、あなたは親切でしたね。私を大事にすると言ってくださった。私は精一杯あなたの夫になろうと自分に誓った…」
“どうぞ私をあなたの夫にしてください”と言った心は嘘ではなかった。
けれど本当は納得できていなかったのだ。
「私は買われてクレーベから引き離された。そのことをどうしても忘れられないのです。
あなたに何かを与えられる度に私は…、感謝しながら惨めな気持ちにもなりました。もう何も施されたくないと」
マルグリットの唇が震えた。
「父の命の証書を拒絶したのはそんなちっぽけなプライドでした。どうかしていました。父の命より自分のプライドを優先するなんて。情けない父ですが、私の本当の父です」
私は椅子から立ち上がりマルグリットに近づいて、滑り落ちるように床に跪いた。
膝の上に置かれていたマルグリットの両手を取って、そこに額を当てた。
「マルグリット、これが私の本心です。どうかお願いです。父を助けてください」
できる限り素直な言葉で懇願した。
こんな言い方でいいのかわからない。
けれど言いたいことはこれで全て。
あとはじっと、彼女の判断を待つしかできない。
しばらくして、はあ、と大きなため息が頭上から聞こえた。
「施されたくないのなら、何を代わりに下さるのかしら?」
彼女の手から顔を上げた。
マルグリットは意地の悪そうな顔で、私を見下ろしていた。
「ここまでおっしゃっておきながら、まさか無償でお父様を助けろとは言いませんわね?」
悪ぶった口調でそんなことを言った。
「私は何も持っていませんが、出来ることは何でもします」
「そうですわ」
彼女はパチンと手を叩く。
「宝石箱を下さるのでしたわね」
すっと立ち上がり、部屋の隅に置かれたチェストの上から布袋を取る。マルグリットが持つと袋の中から物と物が当たる音がした。
おそらく中には私から取り上げた作り途中の宝石箱と道具が入っているのだ。
「これを完成させてくださいませ。良い出来でしたらもらってあげてもよろしいですわ」
マルグリットが私の前でわざと腕を高く上げて、ガチャガチャ振るので、私は立ち上がってその袋を受け取った。
「ただし徹夜は駄目。また取り上げますから」
立って身長が高くなった私を見上げて、マルグリットはいたずらっぽく笑う。
私を許してくれるのですか?などと無粋なことは聞かない。
態度で示してくれている。
あなたの気持ちを受け止めましたよ、と。
「はい、同じ失態は犯しません」
「あなたはいちいち、言い方が大げさなのです」
胸を指で突かれた。その軽い衝撃に心臓が跳ねる。
彼女が私に向ける微笑みはまるで聖母のようだった。
フェリクスくんは言いたいこと言ってすっきりです。
次回お父さんの裁判。




