第12話 かわったもの
「香奈ちゃん」
そう呼ばれた時、誰の言葉なのか上本香奈にはわからなかった。
目の前の男がその言葉を口にしたとわかるまでは少しの時間を要した。
そのうえでなおも新しい疑問に直面する。
この男は一体誰だったろう。
今から3年前。高校3年生の時にフランスのピアノコンクールで入賞をした。
若くして賞をつかみ取った才女であり、メディアに取り上げられその美貌でも注目を集めた彼女には当然たくさんの人間が群がる。
更にもともと国内のコンクールでも数々の入賞を果たしていた彼女は、国内の音楽大学へ特待生として入学した。
その後も変わらず研鑽を続け、テレビだけではなくリサイタルや動画投稿サイトでの露出も増やしていった。
そうして彼女はMDMAを覚えた。
大学に入学してから、何も予定が無いときは彼女は頻繁にクラブ通った。
そこで知り合った男に勧められた薬物だった。
酒を飲んでおり気が大きくなった彼女は、VIPルームでMDMAを使用した。
それが後悔の始まりだった。
一度味わった感覚を彼女は忘れられなくなっていく。
そうして定期的に売人から薬物を買ってしまっていた。
ばれたらまずい、今ある契約や社会的地位もすべて失ってしまう。
それでもカラフルな錠剤を摂取することをやめられなかった。
昨日、MDMAの売買で使用する暗号通信アプリで売人から連絡がきた。
指定された人気のない駐車場に行くと、黒いジープが止まっておりすぐに複数の男に囲まれて後部座席に押し込まれる。
すでに一人の坊主頭の男が座っていた。
名前は教えてくれなかったが、すぐになにかをされるわけではないということは直感的に理解できた。
「上本香奈だよな」
有無を言わせない迫力に、香奈はうなずくことしかできない。
こんな危ない人たちと関わらなければいけないリスクを背負ってしまったことを、その時さらに後悔した。
「早速だけど、俺たちの商売に協力してほしいんだわ」
答えは明白だ。そんなことできるはずがない。
しかし横に座る男はスマートフォンの画面を香奈に見せる。
MDMAの売買の瞬間の写真だった。
「一日だけじゃないぞ」
画面をスライドし、複数の取引の様子がスマートフォンに映る。
それで状況を把握する。
もう私はこの人たちから逃げることができないと。
「協力さえしてくれれば何もしない。今までと同じようにピアノと芸能に励めよ」
「なにをすればいいんですか」
体でも売れというのだろうか。
香奈の少ない裏社会の知識が、脳内に売春を思い起こさせる。
しかし男は首を振った。
「俺の知り合いに一人、ピアノが弾ける奴がいる。そいつに実績をつけたくてな。大会みたいなんで賞取らせるまで鍛えてくれ。お前くらい実力があればできんだろ」
「コンクールとかですか」
「それでいい」
この場の雰囲気と全くそぐわない願いに、香奈は困惑するしかなかった。
だが男の顔からはふざけた様子はみじんも感じられない。
「うまくやってくれんならお前のことは誰にも言わない。ただもしあまりにも結果が出ないようだったら、お前にしてもらう協力も少し変わってくる。よりリスクがある方にな」
香奈に選択肢はなかった。
それどころかこの男の願いに飛びつくほかない。
この男の胸三寸で人生が終わりを迎えてしまうかもしれない。
ピアノで人を教えるなんてしたことないし、相手の実力もわからない。ただ何を指示されるかわからない協力なんかより、はるかにましだと思った。
「わかりました」
安堵が顔に出ないよう、香奈は神妙な面持ちでうなずく。
そこからどうやって家に帰ったかは分からない。
家に帰ってまずしたことは、洗面台のミラーボックスの中に隠した錠剤をのむことだった。
その場にうずくまってしばらくたつと、目の奥がジーンと熱くなる。ぽわぽわと浮遊しているような感覚が、体にまとわりつくように広がっていく。
今までは不安も喜びも、何もかもピアノが解決してくれた。
でもそれは過去のことで、今はこの錠剤が一番の幸せを届けてくれる。
立ち上がり鏡を見る。靄がかかったような視線の中、反射した怯えた自分を見ながら、彼女は多幸感に包まれながら泣いた。




