第10話 協力
「森さん何回か来たことあるんすよ。部屋見たら思い出すかな」
車から途中で降ろされて、僕は友永と一緒に電車に乗り換えた。
そうしてとあるマンションの前にたどり着き、エントランスに入ると同時に友永が口を開く。
ここに来るまでにも僕、というより森を気遣う言葉が目立った。
そのたびに心が少し痛くなる。
「今森さんは事故の後遺症でおかしくなってるんすよ。なんか映画とかドラマとかで見た人とごっちゃになってます。少しずつもとに戻ってくと思うんで」
それが友永の言い分だった。
時刻はもう20時を回った。黄色い空から一変。エントランスのガラス窓から見える空は緑色に変色している。
まだこの世界に慣れてはいない。気を抜くといつでもめまいと吐き気でおかしくなりそうだった。
「あ、そういえば」
エレベーターに入ったところでくぐもった声で友永が口を開く。
このマンション内の本当の色を知らない。おそらく今後も”僕の感覚”での本当を知ることはないのだと考えると気持ちはさらに滅入った。
友永の方を見ると、こちらにペットボトルを差し出している。
透明な液体が入っており、字を見るとミネラルウォーターのようだった。
この体になっても透明という認識に変わりはないようだ。
こうやって前の体との共通項を見出していけることに安堵を覚える。
「今日なんも飲んでないんじゃないですか?」
友永の申し入れに応じる。
確かに喉の渇きを少し覚えていた。
キャップを開けて水を口に含み、そして吐き出す。
僕の知ってる水の味ではない。
甘ったるく、それでいてすこし苦い。
一言で言うと嫌な味だった。
「これ水、ですよね」
「水っすけど」
その問答は僕をさらに絶望させるには十分だった。
◇ ◇ ◇
森が辰巳に黙って稼ぎを得ていたことは知らなかった。
初めてその事実を聞いたとき、友永は胸の奥がざわざわとかきむしられるような錯覚に陥ったのを覚えている。
この感覚は昔感じたことがあった。
親の離婚のときもそうだったし、親友に裏切られて少年院に入った時も同じだった。
誰かに裏切られるときにおこる感覚。
だがこの気持ちは森から辰巳への謀反が理由ではない。
自分には何も言ってくれなかった。
その事実が友永を落胆させた。
森と初めて出会ったのは2年前、18歳の時。
働いていたバーに客として来ていた、辰巳たちとつるむようになり、徐々に親しくなった。
4つ上の森は友永にとっては兄のような存在であり、そして辰巳に認められてどんどんと仕事を振られていく森の様子は、彼にとってはヒーローだった。
どんな時でも森との時間を優先した。
それくらい彼にとっては大きな存在だった。
だからだろうか。
連帯責任だと辰巳に言われた時も、落胆や動揺はなかった。
むしろ森のためにこの体を動かせる。
友永にはそれが少しうれしかったのだ。
しかし森にある種の信仰を捧げている彼には、森の様子がおかしくなっても、そのことを糾弾することができなかった。
入れ替わりなどと言っていたがそんなことを信じることはできない。
元に戻る。
その一点を願うしかなかった。
明らかに事故後の森は様子がおかしかった。
だがその森を否定してしまうと、入れ替わりを肯定することになる。
大切な存在がどこかにいってしまう。
そのことに納得などできるわけもなかった。
友永のマンションの部屋に入る。
少年院から出た後に勤めていた数々のアルバイトなどでは到底住むことなどできない家。
悪いことはお金になる。
頭の悪い友永でもそのことは理解できた。
「入ってください。しばらく森さんの家にもなるので。ゆっくりしてくださいね」
きょろきょろとおびえながら周りを見渡す森に友永は言葉をかける。
ヒーローのようだと感じていた兄貴分の姿は、小さく、同じ人間とは思えないほどに頼りなかった。
「なんか食いますか? ウーバーします?」
リビングのソファに森を座らせ、友永は問いかける。
ゆっくりと森は首を横に振った。
また一つ、落胆する。
「なんか食わないと死んじゃいますって」
その言葉は森には届いていないようだった。
おそらく今は何を言っても無理なのだろうと思った。
友永は自分の分の料理だけ注文し、森の横に腰かける。
「ピアノで稼ぐってどうすりゃいいんですかね」
純粋な疑問だった。友永はピアノのことなど何も知らない。
その答えを森が知っているかも彼にはわからなかった。
森は視線を小さく動かし、か細い声で言葉を発する。
「辰巳さんからどんなことするか連絡来てないんですか?」
また小さく森は首を振る。
「まあ何か考えがあると思いますけどね。ってか本当にいつ練習とかしてたんですか。そもそもそんなんに興味があるのも知らなかったし」
さっきの水を飲んでから明らかに森のテンションは下がっていた。
買ったばかりでいつも飲んでいた水のはずなのに。
しばしの沈黙の後、森が消え入るような声をだす。
「うまくないですよ。あんなの」
いやにネガティブな言葉の羅列に少しのいらだちを覚える。
しかし友永はぐっとこらえた。
「どこがどうダメなんですか?」
友永の返答に森はまた押し黙ってしまう。
もう今日は会話が成り立たないと友永は確信した。
「適当にゆっくりしててください。少しずつでいいので思い出しましょう」
いつか森が言ってくれた言葉があった。会員制のシーシャバーで、ふかふかの椅子に深く腰をかけながら。食い続けられるのは強い人間、食われるのは弱い人間。
その通りだと思った。だからその言葉を胸に彼は生きてきた。実際に辰巳に率いられたグループは強かった。警察に捕まった連中もいたが、それでも止まることなく弱者を食い続けてきた。
ふと、友永は思い立つ。
「森さん、俺の夢って覚えてますか?」
何気なく投げかけた言葉。
だが友永にとってはどんな言葉よりも重い。
昔から考えていた理想の自分、辰巳の下で食い続けてきたことによって、更に形を変えて強固になった彼の目標。
森は答えない。
ただ困惑したように目を逸らす。
返答には十分すぎた。
「あ、すんません。なんでもないです」
落胆をしなかったわけではない。
今はまだその時期ではない。
そのことがわかった。それだけだと自分に言い聞かせた。
だから友永はあいまいに笑ってそうごまかした。




