12. 市場の算盤
触れ、というものを検分しに、私は市場へ出た。
初冬の市場は、白い息と焼き栗の匂いで始まる。石畳は霜で滑るから、荷車の輪に藁が巻いてある。季節が変わっても、市場の知恵は回り続ける。回り続けるものの中に立つと、頭が冷えて良い。
触れといっても、紙が貼ってあるわけではない。公爵家の家政方が商人を回り、口伝えに「取引を控えよ」と言って歩いた――らしい。この「らしい」がすべてである。判もなければ、証文もない。
言っておくが、私は何もしていない。触れが効くか効かないかは、あの家がこの二十年、市場とどんな付き合いをしてきたかで決まる。付き合いの帳簿というものは、女中頭ひとりの退職で消えたりしないのである。
「紙のない触れなんぞ、風と同じだよ」
青物の女将は、曲がり人参を箱に詰めながら鼻を鳴らした。
「風向きだけは教えてくれるがね。……あんた、恨まれてるよ?」
「恨まれる筋は、ないのでございますが」
「筋のない恨みが、いちばん面倒なのさ」
言って、女将は箱の隅に、オマケの葱を差した。
「触れの返事の代わりだよ。持っておいき」
市場の返事は、いつも品物の形をしている。
粉屋にも寄った。例の、組合で旦那様に言い負かされた粉屋である。気まずい顔をされるかと思えば、向こうから帳場を出てきた。
「触れなら、うちにも来たよ」
「それはそれは。……お取引、いかがなさいます?」
「するに決まってるだろ。あんたの旦那にゃ言い負かされたが、あれで目が覚めたのさ。紙のない触れと、耳を揃えて払う客と、どっちの筋を取るかなんて、算盤に聞くまでもない」
商人は、脅しでは動かない。動くのは算盤である。いまの市場の帳面では、伯爵家にブノワ商会、蔵を借りる羊毛商と葡萄酒屋、その後ろに侯爵夫人と、連なる新しい客筋の方がよほど大きい。
触れは、風のまま消えた。
――消えなかったのは、旦那様の腹の虫である。
組合の月例の寄り合いで、旦那様は立った。手にしているものは、何もない。紙も、相見積もり表も、今日は持たせていない。
私は例の斜め後ろに控えて、立ち上がる直前の指先が、卓の縁を一度だけ強く握るのを見ていた。震えは、そこへ置いていくらしい。覚えたのは、誰に教わったのでもない。この人が自分で覚えた作法である。
「先日来、当家との取引を控えよという触れが回っていると聞きます。出所の詮索は、しません。ただ、一言だけ」
広間が、静かになる。
「うちの家政長への圧力は、当家への圧力です。当家は小さいが、筋は通します。お取引くださる方には相場と誠実を――お控えになる方には、後日の後悔をお約束します」
最後のひと言で、広間に笑いが起きた。笑いの質が、あの日の薄笑いとは違う。あれは値踏みの笑いで、これは味方の笑いである。
……後日の後悔、は言い過ぎだと思う。思うが、直さないでおいた。当主の口上は、当主のものである。
帰り道、屋台で焼き栗を買った。
「祝いでございます。初めての、援護射撃のお祝い」
「僕はただ、腹が立っただけです」
「腹の立て方が、当主でございました」
紙袋越しの熱が、指に染みる。初冬の往来で、肩を並べて栗を剥く。
旦那様は、栗を三つ続けて潰した。
「……固いです」
「殻は敵ではございません。指の腹で、筋に沿って、こう」
手本を見せる手と、見習う手が、紙袋の上でぶつかった。双方、黙る。栗のせいにして、私は次の一粒を検分に回した。段取りの外の時間というものは、どうやら焼き栗の匂いがするらしい。
坂の途中で、旦那様がぽつりと言った。
「僕は今日、怒ってもいいのだと、初めて知りました」
「お知りになるのが、少々遅うございます」
「二十年、怒る側ではなく、詫びる側でしたから」
詫びる側で育った人の怒りには、値打ちがある。安売りさせないのが、私の仕事である。
◇
ルヴェル公爵家の大広間で、蝋燭が一晩で煤を吹いた。等級を取り違えたのである。広間用の白蝋と、廊下用の獣脂蝋。値は三倍違い、煤の出方は十倍違う。納入の等級表は、執事室の棚の綴りの中。掃除には女中三人で三日かかった。三日ぶんの人手は、どこからも湧いてこない。
◇
夜の食卓では、コリンヌが旦那様の口上を三割増しで再演していた。
「『後日の後悔をお約束します』だって! あんた、言うようになったねえ!」
「さ、三割増しです、いまのは」
「事実は二割増しまでにございます」
焼き栗の残りは、台所への土産にした。祝いは分けると倍になる、が当家の新しい規定である――と旦那様が言う。規定という言葉の使い方だけ、だんだん私に似てくるのが、少しおかしい。
笑い声の中へ、ティボーが一通の文を持ってくる。差出は、王都外れの修道院。冬の施しに向け、日持ちのする食い物を大口で納めてほしい――署名は、セレスティーヌ院長とある。
芋の、出番である。




