第26話「左手は、返さない」
朝、靴下が片方なかった。
「……また?」
ベッドの下を見る。
ない。
洗濯かご。
ない。
右足だけ履いたまま、部屋を一周した。
昨日までなら、こういう時はそのまま別のを出す。
今日は違った。
なくした方が気になった。
「どこ置いたっけ」
頭の中に、答えが浮かぶ。
冷蔵庫の上。
「なんで?」
見に行く。
あった。
黒い靴下が一枚、冷蔵庫の上に乗っている。
「……なんで?」
今度は答えが来なかった。
左手で取る。
その瞬間。
左腕が、ひどく重くなった。
落ちる。
靴下だけが床へ落ちた。
腕はついている。
痛くない。
でも、持ち上がらない。
「そっち?」
昨日、保留になったもの。
『次回帰還 左腕』
右手で左手を持ち上げる。
「まだ返さないよ」
左手の小指が。
わたしが動かしていないのに、一度だけ曲がった。
◇
「交換はしていませんね」
「してない」
「欠損も」
「ない」
「感覚は」
「ある」
秩序ちゃんが左手の指先を一本ずつ触る。
「これは?」
「人差し指」
「感覚を聞いています」
「触ってる」
「では次」
「中指」
「輪廻さん」
「触ってる」
流焔ちゃんが横で笑った。
「検査向いてねえな、お前」
「退屈」
「まだ三本目だぞ」
左腕は朝より軽くなっていた。
動く。
ただ、ときどき遅れる。
コップを掴もうとすると、指が閉じるまで半拍かかる。
右手なら普通にできる。
「帰還は保留されたはずです」
秩序ちゃんが言った。
「うん」
「にもかかわらず、現行左腕に変化が出ています」
「保留って、止まるじゃないのかな」
「その可能性があります」
「じゃあ何?」
「順番待ち、かもしれません」
「やだな」
「私もです」
珍しく即答だった。
◇
昼前。
忙しくなった。
客が六人。
注文が八個。
流焔ちゃんが鉄板。
わたしが包む。
秩序ちゃんは途中から会計へ回った。
「二番、チーズ抜きです」
「うん」
「五番はソース追加」
「うん」
「輪廻ちゃん、三番できたぞ!」
「はい」
「急に丁寧!」
「忙しいから」
「意味わかんねえ!」
包み紙を広げる。
左手で押さえる。
右手でバーガーを置く。
折る。
左手が遅れる。
紙がずれる。
「あ」
やり直す。
次。
またずれる。
客席から子どもの声がした。
「まだー?」
「もうちょっと」
左手を見る。
「今日、仕事できない?」
返事はない。
もう一度。
紙を押さえる。
今度は動いた。
わたしより先に。
角を折る。
違う折り方。
でも、きれいだった。
「それでいい」
右手で続ける。
左手が次の角を折る。
わたしが合わせる。
一個。
二個。
三個。
速い。
「お前、それ昨日の共有ってやつか?」
流焔ちゃんが言う。
「たぶん」
「便利じゃん」
「うん」
四個目。
左手が勝手に紙を取る。
五個目。
ソースを取る。
「待って」
左手が止まる。
「それ、五番」
ソース追加。
左手が黄色いソースを取る。
「違う。赤」
止まらない。
「待って」
黄色いソースの蓋へ指がかかる。
「待ってって」
右手で左手首を掴んだ。
止まった。
厨房が一瞬、静かになった。
鉄板だけが鳴っている。
「輪廻ちゃん?」
「間違えた」
「誰が?」
流焔ちゃんに聞かれて。
答えられなかった。
◇
注文が落ち着いてから、左手に話しかけた。
「便利でも、間違えるんだね」
左手は動かない。
「わたしも間違えるけど」
休憩室。
テーブルの上に、さっきの注文票を置いてある。
五番。
赤いソース追加。
「黄色、好きだった?」
頭の中に、味が浮かんだ。
黄色いソース。
好き。
昨日までのわたしも好きだった。
たぶん、帰ってきた方も。
「でも、お客さんは赤だった」
左手の人差し指が、注文票に触れた。
一度。
離れた。
「わかった?」
もう一度、触れた。
「返事?」
もう一度。
「二回だと何?」
幽玄ちゃんが向かいに座っていた。
「……たぶん、違う」
「何が?」
「……返事じゃない」
幽玄ちゃんは左手を見る。
「……読んでる」
「注文票を?」
「……覚えようとしてる」
左手が、赤という文字をなぞった。
ゆっくり。
「そっか」
少しだけ笑った。
「じゃあ、覚えて」
注文票を左手の前へ置く。
「わたしの好きなものだけじゃ、仕事できないから」
◇
午後。
左手はまた遅くなった。
今度は無理に使わなかった。
右手だけでトレーを運ぶ。
「手伝おうか?」
流焔ちゃんが言う。
「大丈夫」
「落としたら笑うぞ」
「手伝って」
「早えよ!」
半分持ってもらった。
客席まで運ぶ。
戻る途中で、左腕が急に軽くなった。
ぶら下がっていた手が上がる。
わたしの胸の前へ。
掌を開く。
何もない。
でも。
頭の中に、昨日の声とは違う意味が来た。
返して。
言葉ではなかった。
そう感じた。
「左腕を?」
掌が閉じる。
「やだ」
即答した。
左手が止まる。
「だって今使ってる」
また開く。
「そっちにも左腕あるの?」
わからない。
「返したら、これなくなる?」
わからない。
「新しいの来る?」
わからない。
「じゃあ、やだ」
それで終わりにした。
◇
夕方。
秩序ちゃんに話した。
約束したから。
「返却要求らしき感覚があった、と」
「うん」
「拒否した」
「うん」
「理由は、情報不足ですか」
「違う」
左手を見る。
「これ、今日働いたから」
「……それだけですか」
「それだけじゃだめ?」
秩序ちゃんは少し黙った。
「いいえ」
記録用の紙を閉じる。
「理由として記録します」
「『今日働いたから』って?」
「そのままです」
「変なの」
「輪廻さんが言ったのですが」
「うん」
左手で紙の端を触る。
今日は、朝から何度も遅れた。
仕事も間違えた。
注文票を覚えた。
もう昨日の左腕と同じじゃない。
たぶん。
朝の左腕とも。
◇
閉店後。
端末が鳴った。
秩序ちゃんは触らない。
わたしも。
『次回帰還 左腕』
『状態 保留』
少し待つ。
『返却要求』
その下に、二つ出た。
『帰還側 要求:返却』
『受領側 要求:保持』
「受領側」
昨日までは、わたし自身が受領者だった。
今日は、左腕までこっち側に入っているみたいだった。
表示が変わる。
『選択権 共有』
『合意 不成立』
流焔ちゃんが後ろから覗く。
「ケンカしてんの?」
「たぶん」
「自分と?」
「それはまだわかんない」
「めんどくせえな」
「うん」
左手を上げる。
掌を見る。
「でも、返さない」
左手の指が動いた。
一本ずつ。
ゆっくり握る。
わたしは動かしていない。
右手も上げる。
その拳に、左の拳を軽く当てた。
「今日の分、あるから」
端末が鳴る。
『帰還 3/7』
数字は増えなかった。
代わりに。
『左腕 帰還失敗』
一秒後。
失敗、の二文字だけが消えた。
『左腕 帰還拒否』
誰が拒否したのかは、書いていなかった。
左手が開く。
わたしも開く。
どちらが先だったかは。
もう、見ていなかった。




