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第25話「一回だけ、そっちが決めて」


 目を覚ます前に、起きた。


 変な言い方だけど。


 目は閉じている。


 身体も布団の中。


 なのに、頭の中ではもう天井を見ていた。


 白い天井。


 右上の小さな染み。


 照明の縁についた埃。


 目を開ける。


 同じだった。


「……先に見た」


 起き上がる。


 昨日の最後の表示を思い出す。


『選択権 競合中』


 洗面台へ行く。


 歯を磨く。


 鏡の中のわたしは、今朝は先に笑わなかった。


「いる?」


 返事はない。


 顔を洗おうとした。


 右手が水へ伸びる。


 止めた。


「今の、どっち?」


 わからない。


 だから水を止めた。


 顔は洗わなかった。


◇


「顔を洗っていない?」


「うん」


「なぜですか」


「どっちが洗おうとしたかわからなかったから」


 秩序ちゃんが黙った。


 朝の厨房。


 流焔ちゃんがこっちを見る。


「めんどくせえことになってんな」


「顔、汚い?」


「そこじゃねえよ」


 秩序ちゃんは端末を出さなかった。


 代わりに紙を一枚、調理台へ置いた。


「今日は、記録装置への照合を最小限にします」


「なんで?」


「昨日まで、こちらが照合するたびに異常側の分類も進んでいます」


「あ」


「因果関係は未確定です。ただし、調べること自体が条件になっている可能性を除外できません」


 流焔ちゃんが笑った。


「やっと端末置いたな」


「必要なら使います」


「置いてねえじゃん」


「流焔さん」


「はいはい」


 ちょっと安心した。


 今日は、表示を見なくていい。


 でも。


 何を選んでも、自分の選択かどうかが気になった。


 コップを取る。


 これ、わたし?


 水を飲む。


 これも?


 椅子に座る。


 これも。


「……だるい」


「何が?」


「全部」


 流焔ちゃんがパンを一個投げてきた。


 右手で取った。


「今のは?」


「俺っちが投げた」


「そっか」


 少し楽になった。


◇


 昼前。


 注文が一つ入った。


 普通のバーガー。


 普通のバンズ。


 普通のパティ。


 ソースを取ろうとして、手が止まった。


 黄色。


 赤。


 昨日作った辛いやつ。


 三つが並んでいる。


 頭の中で、黄色を選んだ。


 同時に。


 赤を選んだ感じがした。


「……二個ある」


 手はどちらにも伸びない。


 客席から声がした。


「まだですかー?」


「はい」


 返事はした。


 でも、選べない。


 黄色を取ったら、黄色を選んだ方がわたしになる気がする。


 赤を取ったら、赤の方が。


「輪廻ちゃん」


 流焔ちゃんが隣に立った。


「客待ってんぞ」


「わかってる」


「じゃ決めろ」


「二人いる」


「頭ん中に?」


「たぶん」


「じゃ、じゃんけんしろ」


「手、一個しか使わないよ」


「脳内でやれよ」


 笑いそうになった。


 その瞬間、黄色も赤もどうでもよくなった。


 辛いソースを取る。


「それにするのかよ」


「二人とも選んでなかったから」


「客で実験すんな!」


「ちょっとだけ」


「普通の注文だっつってんだろ!」


 辛いソースを戻した。


 結局、客に聞いた。


「ソース、どれがいいですか?」


「え、選べるんですか?」


「今日だけ」


「じゃあ黄色で」


「はい」


 黄色をかけた。


 今度は迷わなかった。


 客が決めたから。


◇


「逃げましたね」


 秩序ちゃんが言った。


「うん」


「自分で選ぶことから」


「うん」


「それでいいのですか」


「よくない」


 即答した。


 自分でもちょっと驚いた。


 昨日までは、選べることが大事だった。


 今日は、選ぶたびに確認がいる。


 どっちのわたしか。


 誰が先だったか。


 どこから来た選択か。


「これ、ずっとやるの嫌」


「では、どうしますか」


「決める」


「何をですか」


「どっちがわたしか、じゃなくて」


 そこまで言って。


 まだ決まっていなかった。


 だから黙った。


 秩序ちゃんも待った。


◇


 休憩室へ行った。


 幽玄ちゃんがいた。


 窓際で、湯気の消えかけたカップを持っている。


「幽玄ちゃん」


「……うん」


「もう一つの口、いる?」


 幽玄ちゃんはわたしを見る。


 少し横を見る。


「……いる」


「今、何してる?」


「……待ってる」


「何を?」


「輪廻ちゃんが、聞くのを」


「そっか」


 向かいに座った。


 机の上に、砂糖の袋がある。


 一つ取る。


「じゃあ聞く」


 幽玄ちゃんがカップを置いた。


「一回だけ」


 自分の口を指さす。


「そっちが決めていい」


「……何を?」


「何でもはやだ」


 考える。


「今日のおやつ」


 幽玄ちゃんが瞬いた。


「……それでいいの?」


「大きいこと決めさせるの怖い」


「……そう」


「だから、小さいのから」


 砂糖の袋を置く。


「一回だけ。おやつを決めて」


 待った。


 何も起きない。


 一分くらい。


「いない?」


「……いる」


「悩んでる?」


「……たぶん」


「わたしみたい」


 そのとき。


 舌の奥に辛さが戻った。


 昨日のバーガー。


 黄色いソース。


 辛いソース。


 玉ねぎ。


 卵。


 ちょっとまずかった味。


「……それ?」


 立つ。


 厨房へ戻る。


 昨日の材料を出す。


 同じように作った。


 一口。


 辛い。


「これだ」


 幽玄ちゃんが、少し遅れて入ってきた。


「……うん」


「昨日のわたしが作ったやつ」


「……そう」


「そっち、これ知ってるんだ」


 昨日より前には、存在しなかった味。


 帰ってきた何かが、昔のままなら。


 知らないはずだった。


 もう一口食べる。


「昨日のこと、入った?」


 返事はない。


 でも、幽玄ちゃんが小さく言った。


「……笑ってる」


「そっちが?」


「……たぶん」


 わたしも笑った。


◇


 夕方。


 頭の中の二つの選択は、まだあった。


 でも、朝より静かだった。


 わたしがコップを取る。


 もう一つも、コップを取りたがる。


 同じなら、気にしない。


 違ったら。


 一回、考える。


 それだけにした。


「雑になりましたね」


 秩序ちゃんが言った。


「楽になった」


「安全性は下がっています」


「秩序ちゃんが見てて」


「……私がですか」


「変だったら止めて」


「昨日は、ご自身で決めると」


「決めるよ」


 トレーを持つ。


「止めるかどうかは、わたしが決める」


「それでは私の役割は何ですか」


「変って言う係」


「雑です」


「大事だよ」


 秩序ちゃんは少し考えた。


「では、変です」


「今?」


「かなり前からです」


 笑った。


 今度は、鏡を見なくても。


 どちらが先に笑ったか気にならなかった。


◇


 閉店後。


 端末が一度だけ鳴った。


 今日は誰も照合していない。


 秩序ちゃんが見る。


 わたしも横から見る。


『頭部 帰還処理』


 その下。


『選択権 競合中』


 文字が消える。


 新しい文字。


『選択権 共有』


「共有」


 秩序ちゃんの顔は険しい。


「輪廻さん。これは合意を意味するとは限りません」


「うん」


「支配権が分割された可能性もあります」


「うん」


「危険性が下がったとも判断できません」


「うん」


「……聞いていますか」


「聞いてる」


 端末の下に、もう一行出た。


『次回帰還 左腕』


 右手で、自分の左腕を掴む。


 ちゃんと温かい。


 今のわたしの腕。


 交換する前には秩序ちゃんへ言う。


 約束は残っている。


 そのとき。


 表示が変わった。


『次回帰還 左腕』


 から。


『次回帰還 保留』


 わたしは触っていない。


 秩序ちゃんも。


 幽玄ちゃんが、わたしの後ろを見る。


「……今、そっちが決めた」


「何て?」


 幽玄ちゃんが少しだけ笑った。


「……今日は、ここまでって」


 わたしは右手を上げた。


「じゃあ」


 自分の頭を軽く撫でる。


「一回分、おしまい」


 端末は鳴らなかった。


 帰ってきたものが、昔のわたしなのかはわからない。


 でも。


 昨日までの何かでは、なくなっていた。


 昨日のわたしが作った、ちょっとまずい味を。


 もう覚えてしまったから。

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