第24話「知らない味を、覚えてる」
朝ごはんのトーストが、まずかった。
「……変」
焦げていない。
バターもいつもの量。
昨日と同じ袋から出したパン。
もう一口。
舌の奥が、先に嫌がった。
甘い。
甘すぎる。
「こんな味だっけ」
袋を見る。
変わっていない。
賞味期限もまだ先。
右腕の中では、黒い一滴が首のすぐ下まで上がっていた。
昨日の文字を思い出す。
『次回 頭部』
「……頭って、舌も入る?」
誰もいない部屋で聞いた。
答えはなかった。
トーストをもう一口食べた。
まずい。
でも。
知らないはずなのに、もっとまずいものを知っている気がした。
焦げたパン。
青いジャム。
金属みたいな味の水。
白い皿。
そこまで浮かんで、消えた。
わたしはトーストを置いた。
「それ、食べたことない」
◇
「味覚異常ですか」
「たぶん」
「発熱は」
「ない」
「頭痛」
「ない」
「吐き気」
「ない」
「記憶障害」
「あるかどうかわからない」
秩序ちゃんの指が止まった。
「それは、どういう意味ですか」
「知らないことを覚えてる」
朝の厨房。
流焔ちゃんが鉄板の前でソースを味見している。
「それ記憶障害っつーか、記憶増えてんじゃねえの」
「増えるのも障害?」
「俺っちに聞くな」
秩序ちゃんが小皿を三枚並べた。
ケチャップ。
黄色いソース。
何もつけていないバンズ。
「順番に味を確認してください」
「試食?」
「検査です」
「朝ごはん二回目」
「検査です」
ケチャップを舐める。
「酸っぱい」
「正常です」
黄色いソース。
「好き」
「それは昨日までと一致します」
バンズ。
噛んだ瞬間。
口の中に、別の味が重なった。
乾いたパン。
何も塗っていない。
硬い。
その向こうで、誰かが泣いている。
わたしの手が、パンを半分に割る。
小さい方を自分に。
大きい方を、向かいへ。
「輪廻ちゃん?」
流焔ちゃんの声で戻った。
右手が小皿を握り潰していた。
ぱき。
「……あ」
「動くな」
流焔ちゃんが鉄板の火を落とし、布巾を掴んだ。
「手ぇ開けろ。破片刺さってねえか見る」
「大丈夫」
「大丈夫かは俺っちが見る」
右手を開く。
白い陶器の欠片が二つ落ちた。
傷はない。
秩序ちゃんはわたしではなく、端末を見ていた。
『帰還 3/7』
増えていた。
◇
「何を見ましたか」
「パン」
「それ以外は」
「誰か」
「誰ですか」
「わからない」
「場所は」
「わからない」
「時期は」
「わからない」
「輪廻さん自身はいましたか」
少し考える。
「手は、わたしだった」
「現在の?」
「たぶん違う」
秩序ちゃんが記録する。
幽玄ちゃんは、厨房の隅からこっちを見ていた。
「幽玄ちゃん」
「……なに」
「頭、増えた?」
流焔ちゃんがむせた。
「聞き方!」
「だって右腕は影が二本になったし」
幽玄ちゃんは答えない。
わたしの顔ではなく、その少し後ろを見る。
「……まだ、一つ」
「まだ?」
「……でも、口が二つある」
流焔ちゃんが黙った。
わたしは自分の口を触った。
一つ。
「どこ?」
「……輪廻ちゃんが喋る前に、動いてる」
「何て言ってる?」
「聞こえない」
幽玄ちゃんが一歩近づく。
「……読めない。たぶん、言葉じゃない」
わたしは口から手を離した。
「じゃあ、まだわたしの邪魔してないね」
「輪廻さん」
秩序ちゃんが低く呼ぶ。
「軽く扱わないでください」
「軽くしてない」
端末を見る。
三。
七つのうち三つ。
「怖いけど」
自分の舌を噛まないよう、ゆっくり言った。
「怖いからって、全部あっちのものにしたくない」
◇
昼は、新しいバーガーを作ることにした。
「なんでそうなる」
流焔ちゃんが言った。
「知らない味が入ってくるなら、知らない味をこっちから増やす」
「張り合ってんの?」
「うん」
「記憶と?」
「たぶん」
黄色いソース。
辛いソース。
薄く焼いた玉ねぎ。
卵。
いつもなら選ばない組み合わせ。
秩序ちゃんは止めなかった。
ただ、調理台の端に端末を置いた。
「異常が出たら中止します」
「味がまずくても?」
「それは輪廻さんが責任を取ってください」
「食べる」
「そうしてください」
流焔ちゃんが横から辛いソースを足そうとする。
「多い」
「こっちの方がうめえって」
「わたしが作る」
「ケチ」
「流焔ちゃんのは流焔ちゃんが作って」
「じゃ勝負な」
「何の?」
「どっちがうめえか」
「いいよ」
二人で作った。
わたしの方は、ちょっと辛すぎた。
流焔ちゃんの方は、もっと辛かった。
「これ舌殺しに来てない?」
「うめえだろ」
「痛い」
「うまいの先に痛いがあんだよ」
「ないよ」
水を飲む。
笑う。
そのとき。
知らない記憶が来た。
同じように辛いものを食べている。
でも、厨房じゃない。
暗い。
目の前に、七つの容器がある。
頭。
胴。
腕。
脚。
中身は見えない。
誰かが言う。
『全部戻せば、同じになる』
声は聞こえない。
なのに意味だけわかった。
それに対して。
わたしの口が動いた。
『同じじゃなくていい』
そこで切れた。
手の中のコップが傾く。
流焔ちゃんが下から押さえた。
「おい」
「……大丈夫」
「今の顔で言うな」
水が指の間を流れる。
「思い出した」
「何を」
「昔のわたしも」
一度、言葉を探した。
「同じじゃなくていいって言った」
流焔ちゃんはすぐには返さなかった。
「じゃあ」
コップから手を離す。
「今のお前と、そこは気が合うんじゃねえの」
「……うん」
少しだけ、嬉しかった。
◇
午後。
秩序ちゃんは、その記憶を事実として扱わなかった。
「外部から混入した情報である可能性があります」
「うん」
「過去の輪廻さん本人の記憶である保証もありません」
「うん」
「したがって、これを根拠に過去を確定しません」
「うん」
「……不満ですか」
「ぜんぜん」
「そうですか」
「今のわたしが聞いたことは、本当だから」
秩序ちゃんが顔を上げた。
「内容の真偽とは別に?」
「うん」
頭の中へ入ってきた。
だから、もう入ってくる前には戻れない。
でも。
「信じるかは、あとで決める」
秩序ちゃんは少しだけ頷いた。
「それなら、記録できます」
◇
閉店前。
幽玄ちゃんが急に言った。
「……輪廻ちゃん。喋らないで」
口を閉じる。
厨房の換気扇。
油の小さな音。
冷蔵庫の低い唸り。
それだけ。
幽玄ちゃんが、わたしの背後へ回った。
「……今」
わたしは黙ったまま待つ。
「……もう一つの口が、喋ってる」
何を。
聞きたかったけど、黙る。
幽玄ちゃんの眉が寄った。
「……聞こえた」
数秒。
「なんて?」
「……『次は、わたしが選ぶ』」
右腕の黒い一滴が、首を越えた。
顎の下。
頬。
こめかみ。
冷たくない。
痛くない。
でも、自分の顔の内側を誰かが指でなぞっているみたいだった。
端末が鳴る。
『頭部 帰還処理開始』
秩序ちゃんがすぐに端末を取る。
「停止操作を試します」
「待って」
「輪廻さん?」
「止められる?」
「不明です」
「止めたら、どうなる?」
「不明です」
「じゃあ、まだ押さないで」
「しかし」
「約束したよね」
昨日。
交換する前には知らせる。
わたしが決める。
秩序ちゃんの指が、停止表示の上で止まった。
「……はい」
「ありがとう」
わたしは調理台へ戻った。
昼に作ったバーガーが半分残っている。
冷めていた。
辛い。
ちょっとまずい。
でも、今日初めて食べた味。
一口食べる。
「これ、覚えておく」
誰に言ったのかは、自分でもわからなかった。
もう一口。
頭の中で、知らない味と今日の味が並んだ。
どちらも消えなかった。
端末の表示が変わる。
『頭部 帰還先確認』
『帰還対象:輪廻』
『受領者:輪廻』
秩序ちゃんが息を止めた。
昨日までは違った。
『現行個体:受領者』
だった。
「名前になった」
わたしは言った。
右腕の中で、黒い一滴がこめかみに届く。
鏡代わりの金属板に、自分の顔が映っていた。
一つだけ。
その口が。
わたしが動かすより、ほんの少し先に笑った。
でも端末には、もう一行増えていた。
『選択権 競合中』




